必ずしも常に「18」がエースナンバーではない
広島のドラフト1位・
森下暢仁投手(明大)の背番号が、「18」になることが決まった。来季からチームの指揮を執る佐々岡真司監督が現役時代に着けていた番号で、秋のドラフトで交渉権が確定した瞬間に、松田元オーナーに「背番号18をあげていいですか?」と了承を取ったという話もあり、新監督の森下への期待のほどが分かるというものだ。
ところで、この「18」番、いろいろな球団で「エースナンバー」と言われることが多いが、広島の場合を考えてみると、「チーム歴代最多勝の
北別府学は20番、
外木場義郎や現エースの
大瀬良大地は14番だぞ……」と、必ずしも常に18がエースナンバーだったとは言えないところも無きにしもあらず。そこでここでは、歴代でどの背番号が最も勝利を稼いでいるのか、ちょっと検証してみたい。
広島の歴史で、最初に「エース」というイメージを得るのは、やはり167センチの身長でシュートを武器に「小さな大投手」と言われた長谷川良平だろう。この長谷川が長く着けた番号が「18」だ。通算197勝だが、15勝を挙げた1950年は「32」だったので、「18」で挙げたのは182勝だ。
しかし、長谷川の引退後、60年代から70年代前半は、カープの「18」の投手はあまり勝利を挙げられず、他の番号が台頭することになる。60年代から70年代にかけ、エースのイメージを背負ったのは、外木場義郎が背負った「14」と、
安仁屋宗八が背負った「16」だ。この2つの番号は、太田垣(備前)喜夫が外木場、安仁屋以前に両方背負っているのが面白い。太田垣を名乗った時代は「14」で56勝、備前を名乗った時代が「16」で59勝を挙げている。初優勝時のエースだった外木場は79年までに131勝。外木場の前に背負っていた
弘瀬昌彦の28勝なども合わせて、背番号「14」は、「18」より先に通算200勝に到達している。
この後しばらくは、カープの背番号別最多勝争いはデッドヒートに入る。「18」は70年代後半から80年代にかけ、
福士敬章(松原明夫、福士明夫)が58勝を挙げて通算200勝到達。そして次にトップ争いに参入してくるのが「11」だ。60年代に活躍した
池田英俊が83勝、70年代後半から80年代前半のエースの
池谷公二郎が103勝。他の投手を合わせて池谷の現役中に200勝に到達した。
そこにさらに猛追してくるのが、球団史上最多213勝を挙げた北別府学の「20」だ。「20」は北別府の入団までに46勝をマークしており、北別府の現役中の88年には「20」も通算200勝に到達している。そのころトップ争いは、80年代後半は「18」が
白武佳久で21勝を、「14」は「15」から変えた
津田恒実で26勝を追加し、250勝近辺で「14」と「18」が拮抗した状態が続く。
昨年までで「18」は通算502勝
この状態に決着をつけたのが、90年に入団し、138勝を挙げた佐々岡真司だ。佐々岡の引退時で「18」の通算勝利は400を突破。さらに佐々岡の後を継いだ前田健太が97勝を追加し、「18」は500勝を突破した。昨年までで「18」は通算502勝。チームのこれまでの通算勝利の約11.5パーセントを挙げた計算になり、カープのエースナンバーとして揺るぎないものになった。来季から森下がさらにどこまで数字を伸ばしていくか。
「20」に差をつけられた「14」は、その後、
澤崎俊和が24勝を追加するが、
紀藤真琴が65勝を挙げた「11」が逆転し2位に。その後、ルイスの26勝で300勝を突破、
福井優也で29勝を重ねて通算335勝。しかし「14」は大瀬良大地がエースに成長して巻き返し、2019年終了現在で336勝と2位の座を奪還している。
その他の番号では、「16」が安仁屋の後、
長冨浩志が63勝、
山内泰幸が45勝を積み重ねて、現役の
今村猛で300勝に到達。「20」は、北別府の後、
永川勝浩が38勝を重ねて300勝へあと3。「17」が
山根和夫の77勝、
大竹寛(現
巨人)の74勝、現役の
岡田明丈の24勝などで250勝をクリアしている。
ちなみに
黒田博樹がつけて永久欠番になった「15」は、計180勝のうち、124勝が黒田が挙げたもの。津田恒美の23勝もあるが、ほぼ黒田が一代で築いた永久欠番ともいえそうだ。
文=藤本泰祐 写真=BBM