“恩師”からの一言で事態は急転

神奈川県平塚市内にある東海大野球部合宿所の玄関前にて。2020年、新2年生となる小川美優マネジャーがチーム運営の中枢を担う。同野球部において、女性部員が「主務」となるのは初めてのことだという
2020年4月、新2年生に進級する小川美優(1年・埼玉栄高)が、東海大の「主務」に抜てきされた。しかも、1964年の創部以来、初と言われる女性部員での大役である。
主務とはマネジャーのリーダーであり、チームの「顔」である。渉外、監督の秘書業務、財務、日程、合宿所管理、メディア対応、連盟・大学・OB会との連携など、役割は多岐にわたる。チーフマネジャーが機能しなければ、野球部運営は成り立たない重要ポストだ。
社会人日本代表や社会人野球・Hondaで監督を歴任した東海大・安藤強監督は「高校3年間で鍛えられている。彼女に任せておけば大丈夫です」と太鼓判を押す。大学では1年余りのキャリアだが、全幅の信頼を寄せている。
中学時代はバドミントン部で、幼少時にはダンス教室に通うなど活発なタイプだった。父・義行さんは埼玉栄高野球部OBも、小川マネジャーはルールも知らず、白球とのかかわりは一切なかったという。一方で、父の恩師である若生正廣氏(のち、東北高、九州国際大付高監督、今年4月まで埼玉栄高監督、現総監督)とは、家族ぐるみの付き合いがあった。
中学3年時に若生氏が埼玉栄高の監督に復帰。小川マネジャーは埼玉栄高への志望を固めており、ダンス部に入部するつもりでいた。だが“恩師”からの一言で、事態は急転する。
「私の同級生は、米倉(
米倉貫太、現Honda)ら有力選手が入学してくるタイミングで、甲子園出場を狙っていた代でした。そこで、若生先生から『マネジャーをやらないか』と強い勧誘を受けまして……。正直、野球への関心がほとんどなかった私でしたが、先生の熱意に折れて、入部することになったんです」
一度、熱中すると、どっぷり浸かるタイプ。小川マネジャーは若生氏の下でマネジャーとしての基礎を学んだ。若生氏は07年に黄色靱帯骨化症を発症するなど、難病と闘いながら指導。足が不自由なため、練習中は監督からのメニューの指示出しはマネジャーの重要業務だった。甲子園で実績豊富な指揮官だけに、人脈も幅広く日々、接客対応にも追われた。
3年間で甲子園に出場することはできなかったが、裏方としてのやりがいを見つけた2年半だった。ほとんど休みもなかった高校野球の活動を終えると、喪失感に襲われたという。3年前の自分には信じられないほどの感情が芽生え、野球と触れ合いたくなったのだ。
東北福祉大へ進学する選択肢もあったが、同野球部の女子部員は「連盟マネジャー」のみの募集だった。リーグ戦運営だけでなく、チームとの接点を持ちたかった小川マネジャーは東海大を志望する。AO入試で合格し、晴れて2019年、同野球部の門をたたいた。
全力プレーできる環境づくり
今秋のリーグ戦後、安藤強監督から「主務」の打診を受けた。東海大はほかにもマネジャーが在籍しているが、連盟マネジャー専任や経験値など、さまざまなチーム事情が考慮された末、1年生・小川に白羽の矢が立ったのだ。
小川マネジャーはこの1年間、加藤瞬(4年・東海大相模高)の背中を見てきた。同主務は2015年夏の甲子園全国制覇を遂げた当時のマネジャーである。「動きからすべてが、すごすぎました……。加藤さんの後を1年生の私が引き継ぐので、プレッシャーはありますが、しっかり務めていきたいと思っています」。
神奈川県平塚市内の合宿所から自転車で15分の場所に住み、緊急事態の際にも迅速に対応できるようにしている。授業がある平日は夜10時近くまで業務をこなし、野球部のために24時間を割いていると言ってもいい。
「高校野球と大学野球のマネジャーはまったく違います。組織から運営、すべて学生が主体となってくるので、責任も重くなります。野球も今まで以上に勉強しないといけません。男性目線だけではなく、女性だからこそできる気遣い、心配りがあると思います。指示を受けてから行動するのではなく、事前に察知して動けるように心がけていきたいです」
リーグ戦では記録員としてベンチに入るが、その「表舞台」は役割の一端に過ぎない。選手が全力でプレーできる環境づくりこそが、マネジャーとしての手腕が問われる部分。2年から主務のポストに全力を注いだ上で、卒業後は野球にかかわる仕事に就きたいと語る。
「その希望が叶うかどうかも、これからの3年次第です」
小川マネジャーは襟を正した。東海大野球部での活動期間が1年未満とは思えないほどの、落ち着きと風格があった。
文=岡本朋祐 写真=大賀章好