一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 太田殿下がファン投票でオールスターに
今回は『1970年7月27日特別号』。定価は90円。
オールスター投票の結果が出た。
予想どおり、近鉄の新人・太田幸司がファン投票1位で選出。まだ公式戦では1勝だった。同じく新人で南海の
佐藤道郎は、この時点で22試合に投げ、5勝2敗、防御率1.50でリーグ1位の結果を出して、推薦での出場だ。
佐藤は日大時代、学生コーチとして、三沢高の太田を指導したこともあり、2人を因縁づけた記事があった。
結果を出していない太田の出場に対し、当時、大きな批判があったような伝わり方をしているが、当時の週べを見ると、そこまでではない。
ほぼリリーフ中心の起用だったが、6月13日からは10イニング連続無失点があり、南海に比べ、近鉄の守備陣が貧弱な中でよくやっているという声もあった。
黒い霧でボロボロになった球界。太田殿下のスター性への期待も高かったのだろう。
太田自身は、
「自分の力を考えると、ファン投票が伸びていくのは苦痛だった。でも、選ばれたのだから、喜んで出場させてもらいます。周りが僕の出場をめぐってやいのやいの言っているようですが、僕は気にしません」
と意外とふてぶてしい。
ただ、本音の部分ではプロになれてきた時期でもあり、このオールスターブレークでもう一度、走り込み、投げ込みをしたい、とも思っていたようだ。
パ・リーグは
ロッテが独走となっていたが、その中で3年連続の首位打者だった東映・
張本勲の4割挑戦がちらほら言われだしていた。
6月が打率.550、7月は19打数時点で.421と急上昇し、7月8日時点で3割8分9厘としていた。
本人は、
「もちろん4割は打ちたいけど、目標は4割5分においている。こんなことを言うと、大きなことをぬかすと言うかもしれんが」
とらしいことを言っている。
この時点で日本最高打率は51年の東急・
大下弘の3割8分3厘だった。ちなみに三冠王はと聞かれると、「眼中にない」。理由は自身に2打点差でトップに立つ後輩・
大杉勝男の存在。
「打点は大杉で間違いなく決まるだろう。ワシのようなバッターが前にいるんだからな(三番・張本、四番・大杉)」
ここまで自信たっぷりだと気持ちいい。
記録的には前回、本人の言葉でもあったように昨年はレフト方向34.2パーセント、センター方向24.8、ライト方向40.9パーセントと、まさに広角だったのが、今年の5月以降で見ると、レフト方向27.3パーセント、センター方向21.7パーセント、ライト方向51.0パーセントと引っ張る打球が増え(「記録の手帖」)、長打も増していた。
7月8日の西鉄戦では、左腕の乗替が投じた外角低めのスライダーをライトスタンドにたたきこんだ。試合後の張本は上機嫌で、
「プロ入り12年目だが、これまであの球は右にはホームランにできなかった。左へ流すのが精いっぱいで、うまくいって左中間を抜くくらいだった。それがきょうホームランできたんだ。このフォームこそ夢見ていた理想のものだ」
なお調子のよさもあって、前年「打率稼ぎ」と批判されたバントヒットは試みていなかったが、記録の手帖では「4割という大義名分があれば、バントを試みることもときに許されよう」と書いている。
この点については、本人も引退後の取材で「記者に何を書かれようがバントヒットを狙っていけば、4割はいけただろう」と話している。
鋭く振り切る打法への切り替えについて本人は「当てるだけの打法はからだの老化を助けるようなものだった。振り切りバッティングは長打を生み、からだを鍛えることにもなる」と話していたが、周囲は「3年連続首位打者なのに、打点などを出され、貢献度が少ないと年俸をダウンさせ、腹が立ったのだろう」と言っていた。
これに対し、記録の手帖は「理由などなんでもいい」と結論づけている。
要はとにかく「四割打者を見てみたい」という思いだろう。
当時署名はないが、おそらく筆者は千葉功さんだ。体調を崩され、連載は休載中だが、文章から、いわゆる“千葉節”を感じ、懐かしい。
では、また月曜に。
<次回に続く>
写真=BBM