歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 ベンチで待つ長い時間
ふだん活発に動き回り、あるいは動き回らざるを得ない日常の隙間に、何をするでもない室内の1日は休息になる。ただ、これが毎日、室内にいることを余儀なくされるとなれば話は変わってくる。その室内で、ふだんの活発さに代わるほどの仕事量をこなさなければならないとなれば、なおさらだ。心の動きなのに、ストレスが増える様が手に取るように分かる。それでも、室内にいなければならない。時間が長く感じる。そんな日々を過ごしている読者も多いだろう。
さて、プロ野球。打撃には自信があるが、守れるポジションが限られ、そこにはほかの選手がいて、一軍に定着したのはいいが、レギュラーにはなれない。守備の時間があれば、あまり得意ではなくても、少なくとも仕事はあり、最悪、時間がつぶれる。だが、味方の攻撃も、守備も、居場所は基本的にベンチ。やがて仕事の時間は訪れるだろうが、与えられるチャンスは限られている。一瞬だ。そこで失敗したら、それを挽回する機会がいつやってくるのかも分からない。代打という“稼業”には、こんな暗闘もある。
“灰色”の阪急が初優勝へ駆け上がっていく経緯については紹介したが、そこから3連覇、1年を挟んで2連覇、2年を挟んで4連覇と、阪急は黄金時代を迎える。その阪急に高井保弘という選手がいた。仕事は主に、いや、ほとんどが代打だ。入団は1964年。
西本幸雄監督2年目のことだった。もともと外野手だったが、阪急で一塁手に。打撃にはパワーがあり、二軍ではタイトルを獲りまくって“ファームの王様”といわれ、67年に一軍で初本塁打を代打で放つ。「それまでは、とにかく飛ばしてやろうと力んでいたので、7割くらいの力でも入るんや、と少し力が抜けるようになりました」(高井)、という自信につながった。
だが、69年に入団した
加藤秀司(のち英司)が一塁に定着。「いよいよ腹を決めて代打で勝負するしかないな」(高井)となった。それまでレギュラーを目指していた男は、わずかなチャンスをベンチで待ち続けることを役割として受け入れていく。それにしても、ベンチでの長い時間に何をしたものか。そんなとき思い出したのが、若手時代に見た
スペンサーの姿だった。アグレッシブなプレーで“怪物”と呼ばれた助っ人だが、ベンチでは研究熱心。試合中にメモを取る姿が印象に残っていたのだ。
「当時の通訳さんに聞いたら、あればピッチャーのクセをメモしてたんや、ということで、僕もメモをつけ始めることにしたんです」(高井)。72年ごろのことだったというから、「腹を決めた」のが69年だとすれば、それまでに3年を超える紆余曲折があったことになる。
待ち時間、多忙なり
もちろん準備の時間をメモの作成だけに充てているわけではない。出番が回ってくる可能性が低い試合の序盤は、目をナイターの照明に慣らす作業。体を動かし始めるのは中盤からだったが、そんな間にも、「これ、というピッチャーが出てきたら、(ホームゲームなら)お偉いさん用の部屋に駆け込んで観察していました。打席に近い角度から見ないと分かりませんのでね」(高井)という。漫然と過ごすこともできた時間も、いざ仕事を見つけたら多忙だったのだ。
“高井メモ”が始まった72年の代打本塁打は6本。その後も着実に代打本塁打を積み上げ、74年には通算15本塁打となってプロ野球記録を更新、球宴でも代打サヨナラ本塁打を放った。パ・リーグで指名打者制が導入された翌75年には19本塁打となって世界記録も更新したが、その指名打者としてレギュラーに定着してしまい(?)、代打機会が激減。比例して代打本塁打の量産ペースも落ちていく。「すぐに失敗を取り返せる。1日2本、ホームランを打つこともできる。指名打者は気が楽ですよ。自分として誇りがあるのは代打のほうやけどね」(高井)。80年代に入ると代打に“復帰”。81年のサヨナラ本塁打が最後の代打本塁打となったが、通算代打27本塁打は、今も世界記録だ。
話を暗い室内に戻す。よし、この時間を来るべきチャンスのための準備に充ててみよう。そうは思うのだが……。
文=犬企画マンホール 写真=BBM