歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 最下位から躍進した巨人

92年シーズン途中に西武から巨人へ移籍してきた大久保
1992年といえば、
ヤクルトのファンにとっては忘れられない1年だろう。
野村克也監督の“ID野球”で14年ぶりリーグ優勝。黄金時代が始まった記念すべき1年だ。ただ、この92年を記憶に残すのはヤクルトのファンにとどまらないだろう。
パ・リーグでは黄金時代の西武が安定の3連覇。2位の近鉄とは4.5ゲーム差だったが、これも前年と同じゲーム差で、3位の
オリックスには18ゲーム差と、これも前年と0.5ゲーム差しか変わらない。下位も4位と5位が入れ替わっただけで、ここまで勢力図が変わらないのも異例といえば異例なのかもしれないが、盛り上がりに欠けたのも確かだ。
その一方で、やはり異例の展開となったセ・リーグは大いに盛り上がった。最下位に沈んだのは
中日だったが、優勝したヤクルトと9ゲーム差しか離れていない。80年代からBクラスの常連だった大洋も順位こそ5位だったが、ヤクルトと8ゲーム差と大健闘。4位の
広島でさえ3ゲーム差。よく「三つ巴」と評されるシーズンだが、58年に「奇跡の逆転優勝」と言われた西鉄は11ゲーム差、96年の巨人“メークドラマ”が11.5ゲーム差からの優勝だから、数字だけで見れば、この92年のセ・リーグの場合、もし序盤に何かしらの歯車が狂い、それが広がっていったら、最終的に最下位となった中日にも優勝の可能性があったようなシーズンだったのだ。
もちろん、最後の最後は三つ巴。巨人と
阪神が2ゲーム差、同率2位でシーズンを終えた。若いヤクルトに食らいつく名門の巨人と阪神という構図は、セ・リーグの激動を象徴するようでもあった。
開幕からドラマチックだった。巨人は90年に2リーグ制では最速で優勝を飾ったものの、日本シリーズで西武に完敗、翌91年には4位。この92年は序盤から最下位に沈み込む。ファンも多いがアンチも多い巨人だが、アンチも巨人が強くないと活気を失うもの。アンチさえも同情するような沈みっぷりで、巨人も沈鬱なムードに覆い尽くされていた。そんな巨人を変えたのが5月8日のトレード。ベテランの
中尾孝義との交換で獲得したのが“デーブ”
大久保博元だ。西武では
伊東勤という絶対的な存在に及ばず、二軍の四番打者、一軍でも代打の切り札だった大久保は、水を得た魚のように暴れ回る。
水を得た魚は巨人も同様だった。しばらく不在だった陽性のキャラクターが太めの体から放つ特大本塁打は暗い雰囲気をも吹き飛ばし、巨人は7月8日には首位に浮上した。“デーブ効果”という言葉や、「大久保が打てば負けない」という神話まで生まれたが、大久保は後半戦に入って失速、巨人も勢いを失っていく。野村監督も最後は巨人との争いと読んでいたが、そこで飛び出したのが阪神だった。
ポスト“猛虎フィーバー”の阪神も

92年の阪神躍進の象徴となった新庄(左)、亀山
92年の阪神については
八木裕の“幻の本塁打”を紹介した際にも触れたが、記憶に残るのは八木だけにとどまらない。ライバル巨人のお株を奪うかのように序盤から元気ハツラツだった。開幕4戦目でスタメンに抜擢された
亀山努が果敢なヘッドスライディングで勝利を呼び込むと、5月には
新庄剛志がシーズン初スタメン初打席の初球をプロ初本塁打に。勢いあふれる“亀新コンビ”の一方で、新人の
久慈照嘉は正遊撃手として堅守を披露。投げては”軟投派”
湯舟敏郎がノーヒットノーランを達成するなど、投打に若い力が輝きを放った。
“猛虎フィーバー”に沸いた85年の再現とばかりに阪神ファンは盛り上がり、若い阪神も八木の“幻の本塁打”があっても勢いを失わなかったが、これも若さゆえだろうか、最後は優勝の重圧に勝てず。やはり“大ちゃんフィーバー”で80年代に甲子園とプロ野球を席巻した
荒木大輔の復活劇とともに息を吹き返したヤクルトが甲子園でリーグ優勝を決めた。
結果的に後塵を拝し、ヤクルト“ID野球”を大いに盛り上げてしまった巨人と阪神。巨人はオフに
長嶋茂雄監督が復帰、いきなり初仕事のドラフトで4球団が競合した星稜高の
松井秀喜を引き当てるという神業を見せる。やはり(?)失速していったのが、松井がファンだったという阪神。巨人も阪神も、ともに“らしい”後日談でファンを魅了し続けている。
文=犬企画マンホール 写真=BBM