歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 お騒がせ助っ人が続いた時代
通算打率において、規定打席ならぬ“規定打数”は4000打数。21世紀に入って、メジャーから復帰した
ヤクルトの
青木宣親が到達してトップに躍り出たが、その座に長く君臨していたのがロッテのリー。20世紀、あるいは昭和を知るファンには親しみも深い名前だが、21世紀、または平成しか知らない若いファンには、現在は
DeNAの監督を務める
ラミレスの現役時代を思い返してもらえれば、それほどイメージは離れていない気がする。打席の左右こそ違え、長打力と安定感、勝負強さを兼ね備え、プレー期間も助っ人としては異例の長さだった。
本塁打を放ってのパフォーマンスでも沸かせたラミレスだったが、リーはグラウンド外で、弟でチームメートでもあったレオンとレコードデビュー、テレビの歌番組に出演したこともある。ただ、3チームを渡り歩いて3度も優勝の立役者となったラミレスとは対照的に、リーはロッテひと筋で、リーグ優勝は経験できていない。日本への順応レベルは大きな共通点だが、親分肌でもあったリーは助っ人たちから慕われ、やんちゃな
巨人の
クロマティをして「レロンは僕らのゴッドファーザー」と言わしめている。だが、抜群の前評判ながらも実際には機能しない残念な助っ人も少なくないが、リーの場合は逆。来日1年目、シーズン前のキャンプでの評価は驚くほど低く、スポーツ紙の紙面には評論家たちによる「パワーがなく、期待できない」という評価が躍ったのだ。
もちろん、これは見立て違いだったのだが、少しロールプレーで弁護してみたい。リーが来日したのは1976年の秋だが、この当時は、助っ人トラブルが続いていた時期だった。怪しげなヘアスタイルで愛犬と金髪の美女を連れて来日し、73年にヤクルトへ入団したのが
ペピトーン。無断でグラウンドから姿を消し、勝手に帰国するなど、やりたい放題。2年の契約だったが、1年でクビに。ちなみに例の髪型はカツラだった。「ペピトーンも問題じゃない大物」という触れ込みで来日して、74年に太平洋へ入団したのが
ハワード。ペピトーンとは対照的な好感で、メジャー通算382本塁打だったが、日本ではゼロ本塁打のまま故障で帰国、そのまま退団した。そして、76年の秋。リーは羽田空港に姿を現す。
イヤな予感の初登場シーン

リーの趣味はラジコンだった
映画やドラマなどで、短い時間で登場人物の奇妙なキャラクターを端的に表現する際に、その場にふさわしくない小道具は有効な手段となる。そして、その第一印象をくつがえす人間性を小出しにすることで、観客を引き付けていく。報道陣の前に現れたリーの手には、大きなラジコン飛行機。そんな姿を見た報道陣がイヤな予感を覚えたのも自然のことだったのかもしれない。ペピトーンたちが残した伏線もバッチリ。この助っ人は、このときの一発で、周囲から色メガネで見られるようになったのかもしれない。
ただ、当のリーに、そんなことを知る由もない。ラジコン飛行機は神聖にして犯すべからざる趣味であり、試合のヘルメットにもラジコン飛行機のシールを貼るほどの愛好家ではあったが、野球に取り組む姿勢はマジメ。キャンプでの打撃練習も、コンディションの調整だったのだろう。そして迎えたペナントレース、いきなり打棒を爆発させる。当時のパ・リーグは前後期制。前期は慣れない指名打者だったが、後期に外野を守るようになったことが確実性にもつながった。打率.317で首位打者こそチームメートの
有藤道世に譲ったものの、
日本ハムのミッチェルとの争いを制して34本塁打で本塁打王に。わずか2本塁打の差だったが、打点では南海の
門田博光に大差をつけて109打点の打点王に。あわや三冠王という打撃2冠に輝いて、キャンプで批判したスポーツ紙は紙面で「リーさん、ごめんなさい」と謝罪(?)した。
リーは以降10年連続でシーズン打率3割を突破。80年には打率.358で首位打者にも輝いた。規定打席に届かなかったのは82年のみで、打率3割を下回ったのはラストイヤーの87年のみ。通算打率.320は、現在も歴代2位につけている。
文=犬企画マンホール 写真=BBM