右の中継ぎの柱としてファイターズ、ベイスターズで投げまくったタフネス右腕は現在、故郷の群馬で叔父の家業である豚肉の生産・販売に従事している。普段は養豚場で豚の世話を手伝い、週末は「勝五郎豚」の営業に奔走している多忙な菊地和正さんの職場を、パンチさんが訪ねた。 ※『ベースボールマガジン』2020年3月号より転載 58試合投げた年の優勝は最高の思い出
群馬・樹徳高時代は、公式戦に1試合しか登板したことのなかった無名の存在。上武大3年時、リーグ戦開幕投手に選ばれ、その年開花した。2005年、ドラフト6巡目で北海道
日本ハム入団。エース・
金村曉のコントロールと変化球のキレ味を見て、「こんな人たちの中でやっていけるのかな」と思ったのが、プロの第一印象だったという。
パンチ みんなが自分より上に見えたんだ。そこから「俺もプロでやれるぞ」と、何かつかんだのはいつ、何がきっかけだったんだろう?
菊地 4年目、一軍で11試合投げさせてもらったんです。その中で結果的には救援失敗だったんですが、2点差か3点差で急にセットアッパー的な役目でマウンドに上がったとき、
オリックスの
カブレラが相手だったんですよ。ボールが先行してしまって、もうヤケクソで「ど真ん中に投げてやれ」と思って投げたら、2球連続で空振りが取れました。それまではそういった手応えがなかったんですが、その2球で「自分もプロで勝負できるんじゃないか」と思いました。
パンチ いい意味で開き直れたというか。それまでの4年間は手探りしながら「大丈夫かな」と投げていたところが、そのカブレラとの2球で一皮むけた感じがしたんだね。
菊地 そうですね。その次の試合も結果は良くなくて、結局二軍落ちになったんですが、次のシーズンには、一軍で58試合に投げられました。
パンチ その年はキャンプから、どんなことをテーマに取り組んだの? 何が結果につながったんだろう。
菊地 4年間積み重ねてきたものを継続しつつ、前の年に手応えをつかんだ、自信を得たときの気持ちを1年間持ち続けて投げることができたのが、結果が出せた一番の要因じゃないかと思います。

日本ハム時代の09年には58試合に登板して5勝。梨田昌孝監督時代のリーグ優勝に貢献した
パンチ 体も心も、一つひとつ、積み重ねてきたんだな。意識はしなくても、心身ともに磨かれていったんだ。その日本ハム時代の一番の思い出というと?
菊地 その、58試合投げた年に、リーグ優勝をしたんですよね。1年間フルに公式戦を戦い抜いて、しかも自分がチームの役に立てたかなと思えての優勝。あの感覚は、初めてでした。とにかくうれしくて、自然と涙が溢れ出ました。
パンチ それはうれしかっただろうね。その後、日本ハムから
DeNAに移籍した経緯は?
菊地 ずっと、肩があまり良くなかったんです。それが活躍した翌年あたりから出だして、成績が隔年になってしまったんですね。日本ハムというチームは若い選手がどんどん出てきて、入れ替わりが早い。まだ活躍できるうちに、他のチームに移籍したほうがいいんじゃないかという球団の計らいで、DeNAに移籍するきっかけをいただきました。ちょうど元日本ハム監督の
高田繁さんがGMをしていらした縁もありまして。
パンチ パ・リーグからセ・リーグに行ってみて、「あれ? セ・リーグってこうなんだ」と思ったところは?
菊地 パ・リーグは投げる側からするとイメージ的に、球場も広いし力勝負、というところがあったんです。それがセ・リーグは力勝負というより作戦で勝負してくる、細かい野球というイメージが強かったですね。
パンチ セで「こいつ、迫力あるな」とか「怖いな」と思ったバッターはいる?
菊地 DeNAは、継投もパ・リーグより細かくて、「このバッターにはこのピッチャー」みたいな役割が決まっていたんです。当時、DeNAに私の大学の後輩で加賀(繁)というサイドスローがいて、彼が主力の右バッター、特に
ヤクルトの
バレンティン(現
ソフトバンク)とか、ああいうバッター専門で出ていたんです。私は逆にチョコチョコ当ててくるようなタイプのバッターに対しての起用だったので、あまりバレンティンのようなバッターとは対戦していないんですよ。
パンチ じゃあ、自分でも明確な役割を理解してやっていたんだね。
菊地 そうですね。打たせて取る、じゃないですけど、ボールを打たせてゲッツーを取りにいきたいとか、継投の中でそういった役割をもって使われていました。
DeNAは投手も野手もみんな仲が良かった

DeNA1年目、中畑清監督(左)1年目のタイミングでDeNAに移籍した
パンチ DeNAでの一番の思い出はなんですか?
菊地 今と違ってチームはまだ弱かったですが、選手間の仲がとても良くて、楽しかったですね。ピッチャーと野手、というポジションを越えて、みんな仲が良かったんです。
パンチ そうなんだ。割とピッチャーはピッチャー同士かバッテリー、野手は野手同士ってなりがちだけど。
菊地 そうですよね。でも、例えば今季背番号が変わった
石川雄洋とか、とっつきづらい感じがあるんですけど、私はよく2人でご飯を食べに行っていたんですよ。他の野手とも、結構仲良くさせてもらっていました。弱いDeNAにとにかくガッツを与えたいという思いで毎日プレーしていて、そのへんを野手がよく感じてくれたんです。そんな仲間と一緒にご飯を食べに行って、野球の話ほかいろんな話をできたのは楽しかったですね。
パンチ 引退の前は、自分でもちょっと「ヤバいかな」と感じていた?
菊地 最終的には、肩がダメでしたね。シーズン終盤、「もう、ちょっと厳しいかな」と思いつつ、でも「どうせなら一度手術をして、それでもダメだったらあきらめもつくだろう」と、球団に頼んで手術をさせてもらいました。結局、手術する前に自由契約公示が出されたんですが、手術は約束どおり球団が面倒を見てくれました。
パンチ なかなか温かい球団だね。
2014年秋に手術し翌春、北海道日本ハムのキャンプで、まだ投げ始めの状態であることを前提にテストを受けた菊地さんだったが、古巣復帰は叶わなかった。そこで声を掛けてもらったBCリーグ・群馬ダイヤモンドペガサスにコーチ兼任で入団。秋のNPBトライアウト受験にターゲットを絞り、実戦を重ねた。そこで不合格なら引退、と心に決めていた。
お歳暮で好評だった叔父の豚をブランド化
パンチ“死に場所”は決めていたのか。で、そのトライアウトは、どういう手応えだった?
菊地 当時NPBで戦力外になった選手と対戦した感触として、最初の3球ぐらいで「もうダメかな」と思いました。
パンチ それで、納得できたわけだ。そこからあまたの仕事がある中、なぜ今の仕事を選んだの?
菊地 いきなりではなかったんですよ。それこそ世の中にはどんな仕事があるんだろう、自分にはどういう仕事が向いているのかなと思って、ゴルフ道具のショップや倉庫のピッキング(商品取り出し作業)、電気工事など、いくつかバイトをしてみたんです。
パンチ 群馬に帰って?
菊地 そうです。でもなかなかすぐには、自分で「これだ」という仕事が見つからなくて。そのとき、たまたま母校(上武大)から臨時コーチのお声が掛かって、まずはそちらでお世話になることになりました。
パンチ バイトしながら臨時コーチということ?
菊地 はい、でもやはり「野球は自分がプレーしていないと全然面白くない」ことに気が付きまして。ずっとこの仕事はできないなあと思って、継続して他の仕事も探していました。そんなとき、叔父がやっている養豚場の肉を、知人にお歳暮で贈ったんです、そうしたら「これはおいしいから、ウチもお歳暮で使いたい。事業にしたら?」と言っていただいて、「あ、それは面白いな」と。そこで叔父に、叔父の名前をとった『勝五郎豚』をブランドとして僕に販売させてくれないか相談しました。
パンチ それは叔父さんとしてもいいタイミングだったんじゃない? 年配の人は、「おいしい肉を食べさせたい」ことに比重が大きくて、時代に合った販売戦略にはなかなか遅れがちだからね。それで、菊地君の叔父さんの豚は、味がよそとどう違うの?
菊地 とにかく肉の臭みがなくて、柔らかいんです。だから、塩コショウだけでも自信を持って召し上がっていただけます。
パンチ 生姜焼きなんかじゃなく?
菊地 生姜焼きは豚肉の臭みを消すための調理法なんです。ウチの豚は非常に水分量が多いので、火が通りやすいんですよ。豚といえば一般的には「よく焼いて食べる」といいますが、ウチの豚は焼きすぎちゃダメなんです。ちょっとピンクの部分が中に残っているぐらいでいい。豚肉は焼きすぎると曲がってくるので、曲がる前の状態で焼き上がり、です。
パンチ 最初は「販売をやらせてください」と言って叔父さんにお願いしたわけでしょう。どうして今、豚の飼育をしているの?
菊地 まず株式会社S.G.R企画という会社を立ち上げて、豚肉の販売をメーンに事業を始めました。ウチの父の名前が「佐五郎」で、その名前から取りました。
パンチ なるほど。でも販売なら、ジャケット、ネクタイにパソコンを叩いているイメージだよね。
菊地 販売するのに、自分の豚肉をさらにいいものにしたいと思ったんです。それには自分がまず豚のことをよく知らないといけませんから。
パンチ 偉いね。普通は「叔父さん、真っ黒になってやってください。僕は自分の人脈でやりますから」って言いそうなところを、自分も真っ黒になって、豚のことを隅々まで理解するんだ、と。その気持ちが素晴らしいと思うよ。
菊地 人間的にも、自分のまったく知らない世界にもっとトライしていかなければいけないなと感じて、とにかくなんにでも飛び込んでみよう、と思いました。
パンチ いいね~!! だってだいたいの人が、母校から臨時コーチの誘いが来たら、「これをずっと続けて、いずれは野球部監督に」って思うよ。そこを、まったくゼロの世界に飛び込むんだと思えた気持ちは、どこから来たんだろう。
菊地 僕は、こんな素晴らしい仕事はないと思っていますから。
パンチ どういうとき、それを感じたの?
菊地 こういう第一次産業って、誰もが簡単にできる仕事じゃないんですよ。正直野球って、国が豊かだからできる、エンターテインメント的なもの。もちろん野球があって、経済が回る部分もあるにはあるんですが……。
パンチ 芸能界も同じだよ。
菊地「食」は、貧しくなればなるほど最も必要なところでして。今、日本は豊かになったからあまりフォーカスされないし、世の中を支えている大変な仕事であるにもかかわらず、きついとか臭いとか汚いとか言われて、世間からは見て見ぬふりをされがちなんです。
パンチ 食べるときは「おいしいね」って言いながら、何がどう作られて、途中誰がどういう仕事をして食卓に届くか、分かっていないもんね。
菊地 その、人にはできない仕事を自分がやれているのが、とても楽しいんです。
パンチ いいね~。一日の流れは、だいたいどんな感じ?
菊地 朝はだいたい4時半、5時に起きて、身支度し、会社の事務所を掃除してから、豚舎に向かいます。
パンチ プロ野球時代とはまったく別の時間の流れだね。
菊地 まず親豚舎の掃除から始まって、出荷がある日は出荷用の豚舎に来て屠場に出て行く豚を見送ります。そして、出荷用の豚舎を掃除して、午前中が終わります。1時間ほど昼休憩を取って、また1時半ぐらいから作業を始めます。午後はあまり重い作業はないんですが、午前、午後2回に分けて出荷がある日もあるんですよ。
月-金で豚舎の仕事、土日は営業で東京へ

菊地和正氏(左)、パンチ佐藤氏
パンチ 叔父さんに教えを乞うた中でもらった言葉で、心に残っているものはある?
菊地「いい豚じゃないと、残っていけない」と。もうそれだけだ、と言っていましたね。牛と表現は違いますが、豚も上、中、並とランク分けがあるんです。全体の肉付きや霜の脂のかみ方、霜がふっている感じの見た目でランクの上下が決まるんですよ。だから、ランクが上だからといって、食べておいしいかと言うと必ずしもそうではない。ウチのは本当に臭みが出ないような工夫をしているんです。
パンチ そこの工夫は、企業秘密なのね?
菊地 はい、すみません。
パンチ 一番大変なのは、どの作業?
菊地 豚のいる部屋の掃除をする、「肥やしかき」ですね。5000頭から6000頭、いますから。常にスコップ作業なので、両手とも、中指と薬指がバネ指になってしまいました。でも一度もイヤだと思ったことはないし、こうして1年間自分で作業してきたからこそ、自分の体で本当の大変さを体験し、身をもって感じることができました。
パンチ その姿はご家族も周囲もしっかり見ているよ。
菊地 あとは、なんせ野球選手だったもので、仕入れ価格からこうして、ああしてっていうところがどうしても選手時代の感覚でざっくりしちゃうんですよね。
パンチ それ、オリックスにいた野田(浩司)も言ってたよ。彼、今神戸で飲食店をやっているんだけど、プロ野球時代は100万、200万単位の話だったのが、今は1円単位だって。
菊地 そうですね。それこそ100グラムでも細かく計算して10円、1円単位で利益をいただいている状態。これは野球選手には到底分かる話ではないですよね。本当にいい勉強をさせてもらっていると思います。
パンチ そうだよねえ。ところで今のところ、休みはあるの?
菊地 土日は豚舎の仕事を休ませてもらって、東京へ営業の仕事をしに行きます。
パンチ 休みなしじゃない。じゃあ、ここでも営業しようよ。読者の皆さんが食べたいと思ったら、どこで買えるの?
菊地 ネット販売のホームページはまだ、構築中なんです。ですから『勝五郎豚』でネット検索して、メールで問い合わせをしていただければ、個別に販売できます。
パンチ それはよかった。これからの目標は、どんなところですか?
菊地 叔父の作った豚をもっと世の中に広めて、
大勢の方に食べていただくのはもちろんなんですが、それプラス、農業の苦労や喜びをもっともっと皆さんに伝えて、応援してもらえるようにしたいです。
パンチ 例えばそのために、菊地君ができるとしたらどんなことだろう?
菊地 僕はここまで野球をやらせてもらっていたので、農業を応援する「農業デー」とか、何かプロ野球とコラボしたイベントのような活動ができればいいなと思っています。
パンチ それは結構大きい話だよね。まずは菊地君のお子さんの学校はじめ、子どもたちに講演会をして回るっていうのもいいんじゃない?
菊地 なるほど。食育はこれからとても大切な部分ですよね。
パンチ なんか、楽しみが広がるね。これを機に、ますます『勝五郎豚』と農業を日本中に広めてよ。
菊地 はい、頑張ります!
パンチの取材後記
一番シビれたのが、「これは誰にでもやれない仕事なんだ」というプライドと責任感。それが、彼の言葉の端々から伝わってきましたね。
僕がグルメリポーターになって初めて「いただきます」が「命をいただきます」という意味を持つこと、そして農業、漁業に携わる方々への感謝の言葉であることを理解し、心を込めてこの言葉が言えるようになりました。菊地君の話を聞いて、これからはこの言葉の意味をもっともっと子どもたちに伝え、菊地君が身を置く第一次産業を応援するようなトークを各地で行いたいなと強く感じました。
菊地君からお土産にいただいた『勝五郎豚』、本当に臭みがなく、塩コショウだけのシンプルな味付けでも豚肉本来の旨味を味わえました。脂身も適度で程よく、実に美味でした!
●菊地和正(きくち・かずまさ)
1982年6月27日生まれ、群馬県出身。樹徳高から上武大を経て、ドラフト6巡目で05年日本ハムへ入団。09年にチームトップタイの58試合に登板しリーグ3位の26HPをマーク。12年にはDeNAに移籍し、プロ初セーブを記録するなどチーム最多及びキャリアハイの63試合に登板し、14ホールド、防御率2.37。14年限りで退団し、15年はBCリーグ・群馬の投手兼任コーチ。NPB通算成績は177試合、9勝7敗1セーブ40ホールド、防御率3.54。現在は「勝五郎豚」ブランドマネジャー。お求めは「勝五郎豚」で検索、あるいはインスタグラムの@kazumasa_kikuchi からどうぞ
●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。
構成=前田恵 写真=山口高明