歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 長嶋が引退、王が離脱

1975年、指揮官1年目の巨人・長嶋監督
1975年から76年にかけては、巨人の歴史において、もっとも激動の時期だったといえるかもしれない。V10の夢は幻となり、
川上哲治監督が退任し、長く巨人、そしてプロ野球を人気の面でも引っ張ってきた
長嶋茂雄が現役を引退。その長嶋が、新たに監督となって迎えたのが75年だった。
プロ野球の各チームは試合で勝利すること、そして優勝することを目指すもので、なかなか勝てないというのは悩みの種だが、これが常勝となると、ある意味では贅沢な悩みの種となる。セ・リーグ9連覇、さらに9年連続で日本一というV9は空前絶後の黄金時代ではあったが、あまりにも刺激に欠ける9年間でもあった。この巨人の世代交代には、巨人ファンに限らず、ほとんどのプロ野球ファンが新時代の到来と期待に胸をふくらませたことだろう。ましてや、圧倒的な人気を誇った長嶋が監督となるのだ。新たに背番号90を着けた若き監督の一挙手一投足に注目は集まっていった。
長い間「巨人軍はアメリカ野球に追いつき、追いこせ」と、助っ人に頼らなかった巨人だったが、プロ入り前からメジャーの大ファンで、現役時代も好んでアメリカ製の道具を使っていた長嶋監督は、自身の抜けた穴を埋めるべく、メジャーで名二塁手として鳴らしたジョンソンを獲得。巨人も新時代へ向けて加速していっているように見えた。だが、迎えたシーズン開幕戦は、いささか寂しいものとなる。
オープン戦で故障した
王貞治が戦線を離脱し、開幕に間に合わず。もちろん、長嶋は監督であって選手ではない。つまり、前年までは“ON砲”として中軸を担ってきた2人の姿が打線にないのだ。ある意味では、新時代を象徴するような開幕戦でもあったが、多くの巨人ファンは、寂しさ以上に不安を覚えたのではないだろうか。そして、その不安は的中する。それは、選手として王道のド真ん中を歩き続け、およそ不屈の物語とは無縁の存在にも見えた長嶋の、まったく新しい物語が始まった瞬間でもあった。
そもそも、指導者としての経験を積んできていない長嶋を、いきなり監督に据えること自体が冒険だった。そんな冒険にファンが沸いた部分もあったのは確かだ。だが、そんな巨人は勝てなかった。
弱い巨人に観客が激増

1976年、リーグ優勝を果たし胴上げされる巨人・長嶋監督
長嶋監督はジョンソンに自身が守っていた三塁を任せたが、そのジョンソンは慣れない三塁に苦しみ、これが打撃の不振につながる。王は打点王のタイトルは獲得したものの、33本塁打にとどまり、13年連続で手にしてきていた本塁打王には届かず。そして長嶋監督は毎日のようにヤジを浴びる。それは、その現役時代には見られなかった光景だった。巨人は開幕6試合目から最下位に沈み続け、そのままシーズンを終える。巨人の歴史において初の屈辱。対照的に初優勝の
広島には27ゲーム差を離されていた。
ただ、皮肉にも後楽園球場は前年比で25万人の観客を動員し、テレビ中継の視聴率も15パーセントから20パーセントまで跳ね上がった。長嶋監督の進化も始まる。“塀際の魔術師”とも評された外野守備の名手でもある
高田繁を三塁へ回して、ジョンソンを本職の二塁へ。打線での自らの穴には
日本ハムから
張本勲を補強。同い年の王と新たに“OH砲”を形成し、巨人も勢いを取り戻していく。
後楽園球場に日本で初めて人工芝が施設されて迎えた翌76年。王は前人未到の通算700本塁打に到達し、ベーブ・ルース(ヤンキースほか)の715本塁打を上回って、49本塁打で本塁打王に返り咲く。張本は首位打者こそ僅差で逃したが、30試合連続安打のセ・リーグ新記録を樹立した。投手陣もサイドスローの
小林繁が18勝を挙げてブレークすると、前年は投げても投げても勝てなかった左腕の
新浦寿夫が11勝で、巨人も3年ぶりリーグ優勝。ただ、日本シリーズでは阪急に苦杯を喫している。
巨人はV9時代の安定感を失った。だが、苦しい戦いを続けることで、ファンを惹きつけ続ける。プロ野球が迎えたのは、群雄割拠の新時代だった。
文=犬企画マンホール 写真=BBM