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プロ野球20世紀・不屈の物語

「僕は16年目の若手です」……加藤博一が放った魅力あふれる“矛盾”【1983〜85年】/プロ野球20世紀・不屈の物語

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

背番号44は「ヨイヨイ」


大洋・加藤博一


 加藤博一が野村収とのトレードで阪神から大洋へ移籍したのが1983年。プロ14年目、32歳を迎えるシーズンだった。阪神で巨人の“怪物”江川卓を打ち崩し、ひょうきんなキャラクターで人気も抜群。81年に念願だった背番号8を手にしたものの、わずか2年で移籍となり、プロで6つ目の背番号となる22を着けることになる。地元の九州から関西、そして関東は横浜へ。すべてにおいて心機一転、阪神で故障やオフのテレビ出演でのハッスルなどがたたって陥ったスランプから抜け出そうと奮闘するのだが、なかなかうまくいかない。いや、むしろ不振は深刻になっていった。

 転機は、そのオフ。背番号が剥奪され、ドラフト1位で入団する新人に与えられることになる。その新人は、甲子園で「(市立)銚子高の銚子くん」と人気を集めた銚子利夫。それまでの14年間、一軍で活躍した時間よりも下積みで苦しんだ時間のほうが長かった苦労人とは対照的ともいえる存在だった。どんな逆境にもくさらないことが持ち味の男でも、これには激怒。「だったらクビにしてくれ」とまで言ったという。ただ、この男に激怒は似合わない。すぐに前を向いた。新たな背番号44を、縁起が悪いと忌み嫌う選手もいるナンバーにもかかわらず、「ヨイヨイ」と読み換えて奮起の原動力にすると、翌84年、じわじわと独特の存在感を発揮していく。

 この84年は大洋にとっても過渡期だった。スクーターのCMにも出演するなど人気もあったトレーシーがシーズン途中で退団。長くエースとしてチームを支えてきた平松政次、そして82年から指揮を執っていた関根潤三監督もラストイヤーとなる。そんなチームでつかんだ役割は二番打者。すでにベテランの域に達し、自慢の足でも、若い高木豊や球界きっての屋鋪要らの後塵を拝するのは必然でもあった。

 だが、若さや勢いでは手に入らないものを、この15年で獲得していたのだ。一番を打った高木は前年の27盗塁から56盗塁と倍を超える数字で初の盗塁王に。もちろん高木の奮闘があったことも間違いないが、続いた二番打者の貢献が追い風になったことも確かだろう。盗塁で世界の頂点に立った阪急の福本豊でさえ二番打者によって盗塁に影響が出たほど、盗塁において続く打者の存在は大きい。この84年は数字からは見えにくかったが、迎えた85年は、数字どころか、誰の目にも明らかなほど、プロ16年目の二番打者は躍動していく。それは、最下位からの浮上を目指す大洋も同様だった。新たに近藤貞雄監督が就任。打順は同じ二番だったが、役割は微妙に違った。

スーパーカートリオ、出動!


 一番は前年と変わらず高木。ただ、三番に入ったのは屋鋪だった。近藤監督は一番から並ぶ韋駄天3人を“スポーツカートリオ”と命名。のちに“スーパーカートリオ”として定着していくが、その二番打者は、一番の盗塁をアシストするだけでもなく、長打力を誇る三番につなぐだけでもない。打線の潤滑油となるだけでは役割はまっとうできないのだ。「盗塁で背番号の数を超えてやる!」と自らも走る“2号車”は、“1号車”と“3号車”をも円滑に走らせる“連結車”でなければならない。ビデオで相手の投手を繰り返し繰り返し見て、クセの研究を重ねた。それまで控えが多かったが、それも観察眼を鍛える糧だったのかもしれない。いや、糧にしたのだろう。そして、ひょうきんな笑顔に秘められた職人技が発揮されていく。

 人は誰しも、それなりに矛盾を抱え、自らの武器を自らのうちに相殺させてしまうものだが、そこに嘘偽りなく、さらに自身の矛盾を両立させる人は、かえって魅力的に見える。「僕はプロ16年目の若手です」と笑ったベテランは、もちろん軽妙さも持ち味だが、果敢な闘志も持ち合わせていた。4月13日、巨人との開幕戦(後楽園)の1回表。一死一、三塁となると、三走の「16年目の若手」は、一走の“3号車”屋鋪とともに重盗を仕掛け、本塁へ突っ込んでいく。このときは山倉和博の好ブロックに阻まれて、あえなくアウトに。これこそが、“スーパーカートリオ”初の盗塁機会だった。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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