1980年代は昭和55年から64年=平成元年まで。最後の89年1月7日に昭和天皇が崩御し、翌8日からは元号が平成に改元された。80年、プロ野球も一つの時代に終わりを告げる。王が「王貞治のバッティングができなくなった」と引退。衰えたというものの、この年、129試合に出場し、打率.236、30本塁打を放っている。同年、
長嶋茂雄も監督を辞任した。巨人はこの80年のドラフトで東海大の
原辰徳を獲得。“ポストON”が求められるなか、原は入団2年目から早くも四番を任される新スターになった。
ロッテ・
張本勲は80年5月28日、3000安打を本塁打で達成。打球のスタンドインを確認した後は「ベースを一周したときの記憶はほとんどない」ほどの興奮。翌81年に引退した。一方、
ヤクルト・
大杉勝男は両リーグ200本塁打まであと1本と迫りながら、83年に引退。残り1本を「皆さまの夢の中で打たせていただければ」は希代の名文句だ。
広島・
津田恒美は82年に11勝を挙げ新人王。86年に抑えで復活し、22セーブを挙げてリーグ優勝に貢献し、カムバック賞を受賞した。『弱気は最大の敵』を座右の銘に、剛速球で打者に向かって“炎のストッパー”と呼ばれ、89年には28セーブで最優秀救援投手を獲得。しかし、91年に脳腫瘍が発覚し93年に32歳で早世。多くのファンの胸に残る選手だ。
80年代で忘れてならないのがバブル経済。地価、株価がグングン上昇する実体のない好景気のなか、日本人選手では初の“1億円プレーヤー”が誕生した。82年に史上最年少で三冠王に輝いたロッテ・落合博満は、85年に文句なしの成績で2度目の三冠王となり、「来年も三冠王を獲ります」とサラリ。実際に翌年も三冠王になった。2年連続の三冠王は王貞治(73、74年)とバース(85、86年)の3人のみ。年俸も上がり続け、
牛島和彦ら4選手とのトレードで87年に
中日へ移籍し、日本人初の年俸1億円となった。
87年は現役メジャー・リーガーだった
ボブ・ホーナーがヤクルト入り。来日6試合で4本塁打、規定打席に満たないなかシーズン31本塁打を放ったが、「地球の裏側にもうひとつのベースボールがあった」と帰国した。
西武黄金時代だった80年代、87年は巨人対西武の日本シリーズで、日本一まであとアウト1つとなった6戦目、西武・
清原和博が一塁守備に就きながら涙を流していた。ドラフト時の経緯もあり、「巨人を倒すことが、僕がプロに入った一つの目標でしたから。達成できてすごくうれしい」。巨人入りを熱望しながらかなわず翻弄された男のドラマだった。
西武は88年リーグ4連覇。その陰でダブルヘッダー「10.19」で悲劇に見舞われた近鉄は、翌89年優勝。巨人との日本シリーズで3連勝し、3戦目先発の加藤哲郎は新聞記者とのやり取りのなかで、なぜか実際には言っていない「巨人はロッテより弱い」の言葉が一人歩き。第4戦からチームは3連敗。7戦目に加藤が先発したが日本一を逃した。
似たようなケースで
阪神・
江本孟紀。81年に「ベンチがアホやから」という言葉が取り上げられて、引退に至った。
写真=BBM