歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 錚々たる背番号18のエースたち
プロ野球のエースナンバーといえば、多くの人が背番号18を思い浮かべるだろう。諸説あるが、もっとも得意な芸、得意技を意味する、歌舞伎の「十八番(おはこ)」に由来するともいわれる。18番がエースナンバーという意識はメジャーにはなく、エース、つまりチーム最高の投手が「十八番」というのは、日本人には親しみやすいのかもしれない。
背番号18をエースナンバーとして強く意識しているのは巨人だ。この連載でも紹介した
藤田元司が2年目から18番を背負って2年連続MVPに輝いて印象を築き、それを同じく2年目に
堀内恒夫が継承、V9のエースとして活躍したことで定着。以降は桑田真澄が21年の長きにわたって背負い続けた。藤田の前には、のちに背番号14が永久欠番となった
沢村栄治とWエース的な存在だった
前川八郎、ノーヒットノーラン2度の
中尾輝三(碩志)らが着けていたが、エースナンバーとして与えられたというよりは、18番を背負った投手が結果的にエース格の活躍を見せたという印象のほうが強い。
巨人に限らず、背番号18には古くから各チームに好投手が並ぶ。ライバルの
阪神で“七色の変化球”を駆使した
若林忠志が着けていたのも18。ただ、名前のイロハ順で背番号が割り当てられたといわれており、若林が18だったのは偶然だろう。2リーグ制となってからは、
広島で“小さな大エース”
長谷川良平が18番を背負い、時代が平成となってからは現在の監督でもある
佐々岡真司が、21世紀に入ると現在はツインズでプレーしている
前田健太が、それぞれ後継者になった。
続いて、阪急(現在の
オリックス)では驚異的なスタミナで“ガソリンタンク”と呼ばれた
米田哲也が着けて、阪神を経て近鉄で引退するまで通算350勝。1リーグ時代には“鉄腕”
野口二郎も着けていた。時代が進むと、甲子園でアイドル的な人気を誇り、近鉄へ入団した
太田幸司に与えられるなど、エースナンバーというイメージが加速。パ・リーグでは
ロッテで
成田文男や
伊良部秀輝が着け、
西武でも“平成の怪物”
松坂大輔が1年目から背負った。セ・リーグでも
ヤクルトの
伊東昭光が1年目から18番。横浜では成長した
三浦大輔に与えられ、のちに自らのトレードマークに。21世紀では、
楽天を初優勝、日本一に導いた
田中将大も背番号18を着けていた。
こうした流れと一線を画すのが
中日。エースナンバーは日本一の立役者となった
杉下茂が築いた背番号20だ。一方、中日の背番号18には悲しい物語が残る。
墓前の継承式
移籍した阪急でも18番で活躍した
稲葉光雄も印象に残る中日の背番号18だが、1リーグ時代に18番を背負って活躍したのも頭脳派の右腕で、打者の手元で伸びる快速球で凡打の山を築いた
村松幸雄。1939年に入団して、1年目から背番号18を着けた。1年目は5勝に終わるも、2年目の40年に21勝を挙げて大ブレーク。だが、翌41年オフに退団、応召した。44年にグアムで戦死。24歳だった。
わずか3年で通算38勝、防御率1.26。用具が粗悪で、“投高打低”の時代だったとはいえ、前途有望な若者だったことは間違いない。戦後、プロ野球は46年に早くも再開されたが、中日(このときは中部日本)では村松の背番号を欠番に。空席は2リーグ制となった50年まで続いた。
深い眠りについていた中日の背番号18は、50年オフに“復帰”することになった。後継者は三富恒雄。村松がブレークした40年に法大を中退して翼(東京セネタース。のち名古屋金鯱と合併して大洋に。戦後の大洋とは別チーム)でプロ入り、42年には11勝を挙げたが、49年に中日へ移籍してきてからは精彩を欠いていた。この話を受けた三富は村松の墓参に出かける。そして墓前で活躍を誓った。
迎えた翌51年、三富は腕を下げて、左のサイドハンドとして復活を遂げる。シンカーを操って、自己最多の12勝を挙げた。54年の初優勝、日本一を見届けて引退。頭部死球、左腕の骨折、肋膜炎と、その11年の現役生活は野球生命の危機との戦いでもあったが、そのたびによみがえった不屈の左腕でもあった。
文=犬企画マンホール 写真=BBM