一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 川崎球場への不満も

67年、平松政次入団の際の大洋・中部オーナー(左から2人目)、右が当時の三原脩監督
今回は『1971年11月29日号』。定価は90円。
最終的には3位となったが、シーズン中から
別当薫監督の進退が盛んにウワサされ、オフには
江藤慎一の獲得、
青田昇のヘッドコーチ就任などで騒がせた大洋ホエールズ。
当時12球団で一番アトホームとも、ぬるま湯とも言われた球団だ。
大洋・中部謙吉オーナーは、冗談まじりながら、よくこう言っていたという。
「監督やコーチを入れ替えたり、選手を補強するよりオーナーが変わらんと、大洋は強くなれんらしいね。うちの重役連中もコンニャクオーナーがいる限りは優勝が無理だと言うようだし」
聞かされるたび、記者たちは返事に困る。
ただ、「コンニャクオーナーはある意味、ぴったり」の声もあった。
「柔らかいけど、もろくはない。つかみどころはないけど芯はある。ぬらりくらりと正体不明」
だからだ。
質問した際、絶対にウソは言わないが、話が遠回しだったり例え話が多く、何が何だか分からなくなるときが多かったという。
親会社の大洋漁業はようやく少しだけ上向きになっていたらしいが、まだ相当の累積赤字があり、以前も書いたが、最悪の時期だった69年には球団の身売りが重役会で真剣に検討された。
何しろ球団は創設以来一度も黒字がない。毎年5000万、累積赤字は5億円ほどだった。それでも中部オーナーは、
「(創設以来)20年分の宣伝費と考えれば5億なんて安いもんだよ」
と話していた。
ただ、それでも不思議なことに選手の年俸は意外と高い。これはかつて契約更改でもめると選手がすぐオーナーに直訴。その後、球団の経理に「なんとかしてやれよ」の鶴の一声があり、選手の要求が通ったことが多かったからだという。
有望選手を一度大洋本社の社員にしてから球団に出向させる制度も、オーナーが「引退後の心配なく野球に打ちこんでほしい」とつくったものだが、何かと甘えにつながると批判があった。
当時の大洋の大きな悩みが本拠地の川崎球場だった。なかなか満員にならなかったのはチームが弱かったせいもあるが、球場自体の設備もかなりお粗末。横浜市の平和球場の改築話が出たときは移転に乗り気だったらしいが、開発計画が立ち消えになってオジャンになった。
球場の持ち主は川崎市。球場としては黒字が出ていたのだが、なかなか球団の要望は通らなかった。向こうからはいつも「契約が1年ごと。いつ見捨てられるか分からないのに設備投資はできない」と冷たい反応だったという。いわゆる、お役所対応だったのだろう。
しかし、こんな対応では、いずれ川崎から大洋が出ていくことは確実と察する人がいてもよかったようにも思う。そうなってから焦っても遅かったのだが。
昨日は山の日でしたか……。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM