一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 兄には西鉄退団時の思いもあったのか

この年、ゴルファーとしてブレークしたジャンボ尾崎
今回は『1971年12月20日号』。定価は90円。
甲子園出場こそなかったが、快速球で鳴らした海南高の尾崎健夫。当初は西鉄・
稲尾和久にあこがれ、プロで活躍することを夢見ていたと言うが、途中から大きく変わった。
理由は、ジャンボこと、兄・将司の活躍である。70年からプロゴルファーとなり、この年、大ブレーク。稼いだ賞金が1700万、CMなどを含めれば、収入3000万以上と言われた。
巨人・
長嶋茂雄が、年俸5000万、14年目のボーナス2000万と言われ、騒がれていた時代だ。
この尾崎をドラフト3位で指名したのが
ヤクルトだった。
指名前の本人からは「ヤクルトさんなら」という言葉もあったらしいが、その後、兄の勧めもあり、プロゴルファーへの挑戦を決めた。
上京し、千葉の兄の家に滞在中、ヤクルトと最初の交渉。11月24日だった。このとき担当者は1時間半前に到着したが、2人が不在で待たされ、交渉後、「兄さんは話すことは立派だが、決して好感の持てる態度ではなかった」と吐き捨てるように言った。
その後も何度か交渉したが、健夫のゴルフへの思いは変わらず、最終的には松園オーナーの(初出修正)、
「尾崎投手は若い。未来に無限の可能性を秘めた少年だ。ゴルファーに転向したいというのだから引きとめるわけにはいかない」
と言って、この話は終わりになったという。
ただし、ほかのページではオーナーはこう言って交渉の終了を指示したとある。
「来ると言ったから指名したのに、今さらゴルファーとはプロ野球をなめ切っとる。聞けば、交渉に行ったうちのスカウトを30分も待たせたらしいじゃないか。常識を知らんやつだ」
どっちが本当?
説明するまでもないが、尾崎兄は65年西鉄に入団した元プロ野球選手。あの
池永正明と同期である。64年のセンバツ優勝投手として入団したが、投手としては芽が出ず、野手転向。
しかし、67年オフには球団に退団とプロゴルファー転向の意思を伝えた。
球団との話し合いはもつれた。
西鉄にすれば、高額の契約金を支払って獲得した選手だけに、入って3年くらいでやめられたらたまらないということだった。
球団社長も出てきて、
「そんな身勝手は許さん。君の体は会社が拘束している。ユニフォームを脱ぐなら入団時の契約金と3年間の年俸を返せ、でないと告訴する」
と脅した。しかし、尾崎は涼しい顔で、
「契約金が身柄の拘束まで持っているとは初耳。野球協約にも触れていませんから、一度調べてください」
と返したという。
これに球団社長は豹変し、
「そう言わずに、俺の顔を立てて、1年だけやってくれよ」
とわびたが、尾崎の気持ちは変わらず。
最後、この社長、
「君のような男はクズのクズだ」
と言ったらしい。
クズはどっち?
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM