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兵庫県西宮市内のホテルで引退会見に臨んだ阪神・藤川
藤川球児、引退――。
8月31日、その一報は驚きをもって伝えられた。そして翌9月1日、藤川はスーツ姿で引退会見に臨んだ。ただ、まだユニフォームを脱ぐわけではない。1時間に及ぶ会見で「あと2カ月半ありますから」と繰り返した藤川。今日から始まる13連戦に想いを馳せ、首位を走る
巨人を倒す意気込みも見せた。
1998年のドラフトで阪神から1位指名を受け、入団会見で「10年で3回くらい優勝して、そのうち1回は自分が優勝の瞬間のマウンドに立っている」と豪語した。予想を大きく上回る22年の現役生活となったが、優勝はまだ2回。最後の1回は長くバッテリーを組み、信頼を寄せる
矢野燿大監督を「男にする」ためにある。
「自分がいようがいまいが関係ない。チームが勝てばそれでいい」は本音だが、一方で「何とか監督を支えられるように準備していく。相手を倒す可能性のあるボールを投げられるから、(今ではなく)今シーズン限りとした」とも。引退試合の用意された舞台ではなく、勝つための“戦力”として一軍マウンドに戻ってくることを目指している。
頭角を現すまでに時間を要し、「戦力外」の瀬戸際に立たされたこともある。しかし、2004年シーズン途中のリリーフ起用が転機となり、05年には
ジェフ・ウィリアムス、
久保田智之と「JFK」を結成して優勝に貢献。「火の玉ストレート」を武器にセットアッパー、クローザーとして一時代を築いた。
そのストレートについて、藤川は会見でこう語っている。
「生きていく指針になった。昨年からコントロールがうまくいかなくなって、体を扱えなくなったと感じてはいたけれど、いつつぶれてもいいと思って投げてきたから、止まることなくやってこられた」
シーズン折り返し地点での引退発表は、そのストレートをもう一度、球場で見たいと願うファンへの配慮でもある。コロナ禍で1試合上限5000人しか入れない。タイガースファンを「家族」と表現し、無観客試合を経験して「こんなにも力が出ないものかと思った」という藤川だからこそ、できるだけ多くのファンにそのチャンスをと考えたのだ。
引退が報じられた直後、「もう一度、甲子園で勇姿を」とメッセージを送ると、「任せて!ただでは転びませんから」の返信があった。それでこそ、藤川球児。彼は必ず、甲子園のマウンドに帰ってくる。
文=岡部充代 写真=毛受亮介