一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 何度も説教し、信頼関係が固まる

東映時代の張本と水原
今回は『1972年1月17日号』。定価は100円。
中日監督を辞めた
水原茂の手記連載に、東映時代の愛弟子・
張本勲の話が出ていた。
この連載中では水原が張本と出会ったのは、張本が浪商高3年時、下級生を殴ったとし、退部が決まったときだったという。
これを浪商高の後援会関係者で同じ高松出身の人物から聞いた
巨人監督時代の水原が獲得を品川主計球団社長に進言したが、
「暴力をふるうような乱暴な選手は巨人にはいらん」
となって立ち消えになった(暴行について張本は否定。勧誘については、水原の戦友だった中島春雄前監督の紹介で2年時にされたと語っている。ちなみにこのときも野球部は暴力事件で謹慎中。さすが浪商か)。
結局、張本は59年東映入りし、61年には巨人を退団した水原も東映監督となった。
当時の張本について水原はこう書く。
「評判通りファイトの塊のような男で、グラウンドにおいても相手に向かってガムシャラに突進していく。これはプレーの上で、たまたま暴走する場面がある」
さらに試合で打てなかったり、水原に怒られてむしゃくしゃしたとき、合宿に戻り、素手で窓ガラスを割って、自分の手をケガするときもあったという。
新人時代から打撃においては秀でていた張本だが、守備には難があった。それまでの監督は張本に気を使って使い続けたが、水原は容赦なく、試合後半に守備固めを出し、交代させた。
これに対し、すねた時期もあったようだが、徐々に水原に心酔していく。水原がブレずに誰に対しても変わらず厳しく接したこともあるが、何よりチームが明らかに強くなっていったからだ。
水原が、張本が変わった事件として挙げるのが、64年の事件だ。張本が阪急戦のホームでのクロスプレーで捕手に体当たりした際、セカンドから
スペンサーが来て、わめいているのに激怒。向かっていくと、スペンサーは逃げるように二塁に戻ったが、今度は張本がバットを持って追いかけようとした。
水原監督は
「ただ打つだけじゃダメだ。ファンに誤解されるような振る舞いはやめろ」
とコンコンと説教。この後、張本が気持ちを入れ変えたようだ、と書いている。
水原が退団の際、真っ先にきて「やめないでください」と言ってきたのも張本だった。
さらに辞めた後、水原が球宴に評論家として取材に行った際、
「オヤジさん、オヤジをなくして、初めてオヤジさんのありがたさが分かりました」
と記者たちの前で張本が言い、記事にもなったが、これで張本とフロントとの関係がこじれた。
水原は大川オーナーの息子、毅とケンカ別れの形だったからだ。
それでもハリさんは気にすることなく、堂々としていた。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM