歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 管理野球の落伍者
現役生活は同じチームで18年。だが、規定打席に到達したのは2度しかない。そんな打者は珍しいだろう。多くの打者は、主軸として活躍を続けることで現役生活が長くなり、主力だから当然、規定打席に到達することも増えるからだ。移籍を繰り返したのなら、それぞれのチーム事情によってレギュラーになったり控えに回ったりも出てきそうなものだが、そういうわけでもない。確固たる実力があり、常に戦力として期待されながら、シーズンを通してプレーを続けることが難しかったのだ。理由はケガ。肩や腰、ヒザ、太もも、アキレス腱など、全身に24カ所もの故障の跡があるという。移籍はなかったが、チーム名は3度も変わった。九州にあった西鉄から太平洋、クラウン、そして埼玉へ移転した西武と、ライオンズひと筋を貫いた
大田卓司だ。
入団は1969年。津久見高では2年生の春にセンバツ制覇。決勝戦では一番打者として5打数2安打2盗塁の大活躍だった。当時から大舞台での強さは卓越したものがあり、3年生の夏は3回戦で敗退したものの、14打数7安打と打ちまくっている。その秋のドラフトで「パ・リーグなら西鉄しかない」と思っていた球団から指名されたが、指名順位は9位。法大の
山本浩司(浩二。
広島)や、のちにチームメートとなる
田淵幸一(
阪神)らがいた大豊作ドラフトで、西鉄の1位は
東尾修だった。
“黒い霧事件”が発覚したのは1年目のオフ。チームが深刻な低迷に陥っていく中で、大田は一軍と二軍を往復しつつ、ウエスタンで2年目の70年に打点王、翌71年には首位打者と、着実に力をつけていく。西鉄ラストイヤーの72年には一軍でも99試合に出場して12本塁打。だが、翌73年から徐々に出場機会を減らしていく。それでも太平洋ラストイヤーの76年に指名打者としてレギュラーを確保。これが初の規定打席で、初球から打ちにいく積極的な打撃で23本塁打、自己最多の68打点を記録している。

クラウン時代の大田
身長170センチとプロ野球選手としては小柄ながら、こぢんまりと耳元の近くでバットを構えてから下げ、すさまじい勢いで振り抜く“水平打法”は豪快で、その思い切りの良さもあって“小さなヒーロー”と言われた。だが、チームがクラウンになると、ふたたび出場を減らしていく。そして78年オフ、チームは西武に、そして本拠地も福岡から埼玉は所沢へ。チームは田淵ら全国区の選手を大量に獲得して再起を図ったが、低迷からは抜け出せず。81年に自己最多の24本塁打を放った大田も、出場を大きく増やせずにいた。そんな81年オフ、
広岡達朗監督が就任、“管理野球”を掲げると、大田は“落伍者”扱いに。だが、これが起爆剤となった。
やはり見せ場は大舞台
大田は5月に月間MVP、そのまま西武は前期を制して、前期のMVPにも。
日本ハムとのプレーオフでも満塁の場面で2度、代打に立って、ともに適時打を放ってMVP。シーズンでは打率.091と苦しんだクローザーの
江夏豊を攻略してみせた。
中日との日本シリーズでも打率.417、2本塁打、6打点の活躍で優秀選手賞に。大舞台を得て、水を得た魚のように本領を発揮した。
なお、チームが西武として再スタートした79年から放映が始まったのが、テレビ時代劇の『必殺仕事人』。ペナントレースでは別の顔(?)ながら、ここぞの場面で必殺の打撃で勝負を決める大田は、まさに“必殺仕事人”。応援団がスタンドから『必殺仕事人』のテーマ曲を奏でている場面を記憶に残しているファンも少なくないだろう。
翌83年は2度目の規定打席となる。田淵が離脱したときには代わって四番を務めたこともあったが、やはり見せ場は大舞台。
巨人との日本シリーズでも2勝3敗と後がない第6戦(西武)で5打数4安打と打ちまくって、ここから西武は息を吹き返して2年連続で日本一に。最終的に12安打、1本塁打、打率.429の大田がMVPに輝いている。その後はレギュラーからは離れたが、コンディション作り、体のケアに人一倍の時間をかけて、86年までプレーを続けた。
文=犬企画マンホール 写真=BBM