歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 「秋山さんの代わりは無理」

93年オフ、大型トレードでダイエーから西武へ移籍した佐々木
1993年、FA制度が導入されて最初のシーズンオフ。4選手が権利を行使し、中でも去就に注目が集まったのは
中日の
落合博満で、あこがれの
長嶋茂雄監督が率いる
巨人への移籍が決まった。このFA制度により、ベテランの大物たちのトレードは減っていくことになる。
ただ、その93年オフ、FAの嵐が吹き荒れる直前の11月29日に、球界を揺るがす大型トレードが成立した。チームは西武とダイエー(現在の
ソフトバンク)で、3対3のトレード。西武の3人のうち1人にはは、黄金時代の中心選手として全盛期を迎えていた
秋山幸二がいた。秋山にすれば、地元の九州への凱旋”。低迷するダイエーでは精神的支柱にもなり、99年の優勝、日本一へとチームを引っ張っていくことになる。翌94年オフにはチームリーダーの
石毛宏典、エース左腕の
工藤公康もFAで西武からダイエーへと移籍。90年代の後半は、黄金時代の主役が西武からダイエーに代わった時代でもあった。
だが、ダイエーよりも先に結果に結びついたのは、90年からリーグ4連覇と、まだ黄金時代にあった西武だった。ダイエーから移籍した3人は若手エースの
村田勝喜、左腕の
橋本武広、そして92年に首位打者、盗塁王となった
佐々木誠だ。秋山より3歳だけ若い佐々木に秋山の穴を埋める活躍が期待されたのも無理はないだろう。攻守走の3拍子がそろった大型選手で、当時は秋山とともに“メジャーに最も近い男”と言われていた佐々木。90年の日米野球では、米チームを率いていた
ドン・ジマー監督に「10年に1人の選手。アメリカに連れて帰りたい」と絶賛されている。
ただ、秋山が抜けたとはいえ、西武には四番打者の
清原和博を筆頭に、戦力は盤石。佐々木に与えられた打順は秋山のイメージも強い三番で、清原の前を打つことになったが、新天地で導き出した結論は、「秋山さんの代わりは無理。今までどおり佐々木の野球をやる」ことだった。初球から打ちにいく思い切りの良さは変わらず。打率3割にこそ届かなかったが、自己最多の84打点、さらには37盗塁で2度目の盗塁王に輝いて、西武のリーグ5連覇に大きく貢献。優勝の経験がなかった佐々木は、車につける初心者マークを胸に貼って、初めてのビールかけで暴れまわった。
だが、そのオフに
森祇晶監督が退任、
東尾修監督が就任すると、野球観の違いもあって伸び悩むようになる。翌95年は西武も5年ぶりに優勝を逃した。運命の歯車は、過酷な方向へと徐々に回り始める。
「野球の原点を見た」

日本球界での最後の2年は阪神でプレーした
95年オフにFA宣言。メジャーからも誘われたが、家族のことを考えて断念して、西武に残留する。97年には打率.304と5年ぶりに打率3割をクリアして、王座奪還に貢献した。だが、翌98年は75試合の出場に終わると、まさかの自由契約に。このときもメジャーから声がかかったが、新天地に選んだのは阪神だった。阪神は“ID野球”の
野村克也監督が就任したばかり。
ヤクルトで一時代を築いた野村監督の野球観が自分のものと同じではないかと思ったことが理由だった。だが実際は、まったくの別物だったという。阪神では出番が激減して、2000年オフに戦力外を通告される。このときの佐々木に声をかけるメジャー球団はなかった。
それでも佐々木は「このまま野球をやめたら悔いが残る。もう一度、泥まみれになって野球をやりたい」と渡米して、独立リーグでプレーする道を選んだ。21世紀に入った2001年に独立リーグで放った代打サヨナラ本塁打が「野球人生で最高の思い出」(佐々木)だという。そのオフに現役引退。かつての“メジャーに最も近い男”は、およそ10年間でメジャーからは遠い存在になってしまったが、ラストシーンは「野球の原点を見た」と語って、キャリアを笑顔で締めくくった。
文=犬企画マンホール 写真=BBM