歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 クロマティに続け?

来日1年目の88年、いきなり14勝を挙げたガリクソン
21世紀のプロ野球では1チームに何人も外国人の選手が在籍しているのが当たり前になっているが、20世紀、特に1980年代までは基本的に2人、多くて3人、例外的に4人ほどしかいなかった。いわゆる外国人枠で、一軍に登録できるのが2人までと限られていたことも大きな要因で、その枠に届かない“第3の外国人”もドラマを生んだ。ただ、外国人枠に入った選手2人も、両雄が並び立つというパターンは多くなく、序列があったわけではないものの、どこか1番手、2番手のような雰囲気もあった。
逆に、外国人の選手が1人もいなかったのがV9
巨人。正確には
川上哲治監督が率いていた時代は、ほとんど助っ人に頼らなかった。もちろん、異邦人を差別したり蔑視したりしていたわけではない。当時は本場アメリカの野球に対して日本の野球は足元にも及ばないと思われていた時代。“巨人軍の父”正力松太郎の「アメリカ野球に追いつき、追いこせ」という言葉があったからだ。80年の歴史を超え、今後も歴史を続けているであろう巨人を1人の人間に置き換えれば、V9時代は少年から青年になりつつあるころ。それこそ今なら差別だなんだと批判されそうな方針も、時代の違いもあるが、「アメリカの野球に追いつき、追いこすのは、もっとも長い歴史を誇る我々しかいない」というような若者ならではの気負いにも思える。
これが一変したのが1975年。川上監督が勇退し、引退したばかりの
長嶋茂雄が監督に就任してからだ。自らの穴を埋める強打者が必要だったこともあるが、長嶋は筋金入りのメジャー好きでもあった。このとき獲得したジョンソンは1年目こそ慣れない三塁守備に苦しんで精彩を欠いたが、2年目は本職の二塁を守ると真価を発揮してリーグ優勝に貢献。以降、巨人は結果的に、他の球団と同じ方向へ方針を転換して、助っ人を抱えることで戦力を増強させていくことになる。
80年代の巨人で助っ人といえば、多くの人が真っ先に思い浮かべるのは
クロマティではないか。来日1年目の84年こそメジャーの実績も抜群な
スミスに頭が上がらなかったが、そこから90年まで、ほとんどを第一線で活躍。まさに“1番手”の助っ人だった。ただ、この80年代は巨人の試合ほとんどをテレビで観戦することができた時代。クロマティに続く助っ人たちがブラウン管で躍動する雄姿が目に焼きついているファンも多いだろう。
スミスが退団したことで、85年に入団したのが投手の
カムストック。翌86年には
サンチェが加入して、リリーバーとして活躍した。
王貞治監督は“ワンパターン”と揶揄されながらもサンチェと
角三男、
鹿取義隆の3人による継投策にこだわって、「角、鹿取、サンチェ」は流行語にもなった。そして87年にはリーグ優勝。だが、そのオフに風向きが一変する。
インパクトは十分

81年、20本塁打を放ちながら132三振を喫したトマソン
13勝を挙げた
江川卓が突然、引退を表明。巨人は江川の穴を埋める補強を求められた。そこで獲得したのがガリクソンだ。この時点でメジャー通算101勝の実績は申し分なし。抜群の制球力に加え、球速よりも威力が感じられるストレートが武器。スピードガンでは140キロ前後だったが、王監督は「気合がこもっているから打たれない。みんなにも、あの気合を見習ってほしい」と語っていた。
“働き馬”とも言われた抜群のスタミナを誇っていたが、糖尿病を患っていたことでも知られ、左手の指先から血を抜いて糖の量を検査し、腹にインスリンを打つのが毎朝の日課。自分と同じ糖尿病患者への慈善活動にも熱心で、CMなどグラウンド以外の収入は全額、寄付していたという。もちろんグラウンドでも活躍して、来日1年目はリーグ最多の14完投で、チーム最多の14勝。2年目は左ヒザ半月板損傷で出遅れて7勝に終わって退団したが、わずか2年のプレーながら、それ以上のインパクトを残した助っ人だった。
同様に2年のプレーで、目立った数字も残せなかったが、ある意味ではガリクソンよりもインパクトがあったのは81年に入団したトマソンではないか。とにかく空振りが豪快。意味のない空振りなのに、何か意味があるように思えてしまうからなのか、芸術の世界では、芸術ではないが存在が芸術のようであり、その役に立たないことが芸術よりも芸術らしいものを“超芸術トマソン”と呼ぶようになったらしい。だが、誰よりも豪快な空振りもプロ野球の魅力。数字では「役に立たないもの」だったかもしれないが……。
文=犬企画マンホール 写真=BBM