歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 プレーオフ元年

73年、南海を優勝に導いた野村兼任監督
20世紀の
野村克也といえば、南海(現在の
ソフトバンク)の四番打者、そして司令塔としてプレーしていた姿よりも、監督として“ID野球”で
ヤクルトに黄金時代を築いた姿を印象に残している人のほうが、もう多くなっているのかもしれない。ただ、野村の監督としての初優勝は1973年、南海でのことだった。監督であり、四番打者でもあり、正捕手でもあった時代。選手として19年目、兼任監督としては4年目となるシーズンだった。
一方、パ・リーグにとっては変革の1年でもあった。当時のパ・リーグでは阪急(現在の
オリックス)が黄金時代を迎えていたが、対するセ・リーグでは
巨人がV9という空前絶後の黄金時代を謳歌し、人気の面でも他を圧倒。対照的に深刻な観客動員数の減少に苦しむパ・リーグは、その打開策のひとつとして前後期制を採用した。前期と後期それぞれの覇者がプレーオフで戦い、先に3勝を挙げたチームがリーグ優勝となるシステム。結果的に集客の低迷に大きな変化を呼び込むことはできなかったが、21世紀に入り、名称やディテールこそ違うものの、ペナントレースだけで優勝が決まらないスタイルが定着したことを思えば、革新的すぎたのかもしれない。
そんな73年の前期を制したのが野村の率いる南海だった。当時は1シーズン130試合で、前後期それぞれ65試合ずつ。前期を迎えるにあたり、
ロッテの
金田正一監督は「これからはトーナメントのようなもの。一戦必勝や」と鼻息も荒く語っていたが、野村は「130試合も65試合も長丁場。今までどおりにやればいい」と思っていた。「結果的にツイてた。(他のチームは)金田さんを筆頭に前半からピッチャーを酷使していた。だけど俺はキチッとローテーションを守って、前期を優勝しちゃったんだ」と野村は振り返る。
だが、「みんな、そのことに気づいちゃって(笑)」(野村)後期は3位。優勝したのは黄金時代の阪急で、その阪急に野村の南海は12敗1分と1勝もできず。前期を制した勢いがないどころか、むしろ阪急の後期優勝をアシストしたような結果に終わってしまったが、「でも、それくらいの実力差はあったんだ」と野村は語る。「プレーオフも、南海が勝てるわけがない、1勝すりゃいいほうだ、という予想ばかり」(野村)だったというが、チームの総合力だけでなく、後期の惨敗を考えれば当然だった。だが、こうした予想を野村は完璧に覆すことに成功する。
絵に描いたように思いどおりに

プレーオフで阪急を破ってトロフィーを手にする野村兼任監督
野村の回顧は続く。「捨てるゲームを作ったほうがいいと思って、まずは第1戦に懸けた。どうせたいしたことないんだけど(笑)、いいほうから投手を全部つぎこんでね。それで勝ったんだけど、途端にチームの雰囲気が変わっちゃってね。あと2つ勝ちゃいいんだ、と。ところが、第2戦はボロ負け。今度は、やっぱりダメだ、と(笑)。チームの気持ちの浮き沈みがすごかったね」と野村。結局、南海は2勝2敗で、優勝の行方は第5戦(西宮)にもつれこんだ。
試合は息づまる投手戦となり、両軍ゼロ行進で迎えた9回表、ようやく南海が
スミス、
広瀬叔功の連続ソロで2点。その裏、阪急は伏兵の
当銀秀崇の代打本塁打で1点を返したものの、届かず。南海7年ぶりのリーグ優勝が決まると、野村はプロテクターにキャッチャーミットを着けたまま宙を舞った。後期の徹底した“負けっぷり”に加え、プレーオフでの粘り勝ち。この南海のリーグ優勝は“死んだふり優勝”と評され、野村は「金田さんには、南海は前期に優勝したから大阪で八百長をやってる、とか嫌味を言われた(笑)」とボヤキながらも、「これほど絵に描いたように、思うとおりになったシーズンも珍しい」とも。会心の采配だった。
ただ、日本シリーズでは巨人にV9を許し、これが南海にとって最後の美酒となる。ホークスが王座に返り咲くのは26年後、99年のこと。本拠地は大阪から福岡へ、チームはダイエーとなり、監督はV9巨人で73年に野村に続いてプロ野球3人目の三冠王に輝いた
王貞治だった。
この2020年もホークスは強かった。あまりの強さに近年は食傷気味(?)のようになっていたファンもいたようだが、2年連続で巨人に1勝も許さず日本一に輝いたとなれば、さらなる境地に到達したようでもあり、痛快な思いを新たにしたファンも少なくないだろう。73年の歓喜は、くすんで見えるかもしれない。ただ、別次元の痛快さはあったはずだ。
文=犬企画マンホール 写真=BBM