歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 足が最大の武器だったが……
アキレス腱を断裂しながら復活を果たした門田
南海(現在の
ソフトバンク)の
門田博光がアキレス腱の断裂から復活したことについては何度か触れてきた。門田が右足のアキレス腱を断裂した当時は選手生命に関わる重傷。ただ、もともと本塁打に魅力を感じていた門田は、懸命のリハビリを経て、徹底して本塁打を狙い続ける打撃で復活、パ・リーグの指名打者制も幸いして、そこから3度の本塁打王に輝いた。
のちに門田も自著に「一度、死んだ日」と書くほど絶望的なケガだったことも事実だが、門田よりも前に、門田と同じ南海で、門田と同じ右アキレス腱を3度も断裂しながらも、そのたびに復活を遂げた男がいた。
森下正夫(整鎮)だ。門田が在籍していたときの南海は低迷していることがほとんどだったが、森下は黄金時代。「南海を愛する心は誰にも負けない」と語り、“南海魂の権化”と言われたのが森下だった。ただ、最大の武器は足。もちろん指名打者制もなく、門田のように本塁打を狙い続けることもできない。だが、「南海を愛する心」だけでなく、元気でも誰にも負けなかった。山本(鶴岡)一人監督は“親分”と呼ばれていたが、清水の次郎長ばりに“南海の小政”という異名を取ったのが森下だ。
入団は1952年。2リーグ制となって3年目、南海は51年に初めてパ・リーグを制し、以降リーグ3連覇、50年代だけで5度の優勝という時代だ。森下は奇しくも現在のホークスが黄金時代を謳歌している九州は福岡の出身。八幡高2年で遊撃手としてセンバツに出場するも、雨天の試合で自身の悪送球で敗退を招き、号泣した。その後、中退して南海のファーム的な存在だった南海土建へ。入団したときは18歳だった。当時は月給が5000円で、朝夕2食つきの寮費が4000円。実家への仕送りもしていて、「昼は7円のパン。早く10円のアンパンが食べられるように、と思っていた」(森下)という。
南海で内野手として活躍した森下
ただ、当時の南海は“100万ドルの内野陣”と呼ばれた盤石の内野陣がおり、「みんなが10、練習をするなら、俺は20、練習する」と早朝5時半から単独で練習。「試合に出るためには、どこでも守れなければ」と、内野の全ポジションをこなすべく準備した。1年目から58試合に出場。内野だけでなく、2試合でマスクもかぶった。翌53年には86試合の出場ながら6死球で“死球王”に。その翌54年には正二塁手として全試合に出場して51盗塁、初のベストナイン。続く55年には59盗塁で盗塁王に輝いて、王座奪還の起爆剤となった。このシーズンいっぱいで、ようやく入団から続けていた早朝練習をやめている。
55年は三塁の68試合を最多に、遊撃を65試合、二塁を13試合で守って、その後もポジションを固定されることはなかったが、“スタメン”は守り抜いた。卓越した俊足とスライディング技術に加え、投手のクセを徹底的に研究して盗塁を積み上げたが、闘志むきだしの走塁で相手の野手を吹っ飛ばすこともしばしば。だが、最初にアキレス腱を切ったのは、そんな走塁中のことだった。
「よう怒られました(笑)」
58年6月1日に右アキレス腱を断裂。手術を経て順調に回復し、8月25日には練習に復帰したが、そこで再び切った。「1度目も驚いたけど、2度目は油断もあった。あんなに情けないことはなかった」(森下)という。その58年は38試合の出場に終わったが、翌59年は5月に復帰して初の日本一に貢献した。
その翌60年には完全復活。さすがに盗塁は減ったものの、それでも61年まで2年連続で20盗塁を超えた。だが、62年のキャンプで、みたび断裂。さすがの森下も「もう野球は無理だろう」と思ったが、そんな森下を支えたのは夫人だったという。その後は少しでも固定していようとソックスを3枚も重ねてサポーター代わりに。翌63年には二塁を中心にレギュラーの座に返り咲き、139試合に出場している。
「僕は闘志で(チームを)引っ張っていたからね。鶴岡さんも、それが分かっていた。だからケガのときも僕の給料は1度も下がっていないんです。ただね、よう怒られました(笑)」と森下。投手が投げるたびに必ず声を出し、ボール回しでも必ず最後に受け、投手に手渡した。「僕の使命だと思っていた。勝利への執念がわき上がってくるんです」とも。ラストイヤーの66年も92試合に出場。その後は指導者として南海を皮切りにチームを渡り歩き、92年には台湾プロ野球の兄弟を率いてチームを優勝に導いている。
文=犬企画マンホール 写真=BBM