一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 大杉勝男はなぜ背番号を51から3にしたか

東映・大杉
今回は『1972年5月15日号』。定価は100円。
のちになるが、
ロッテ・
金田正一監督、太平洋・
稲尾和久監督(このときは西鉄)時代の乱闘は有名だが、両チームの関係は、もともとあまりよくなかったのかもしれない。
平和台で、こんなことがあった。
1972年の西鉄─ロッテの初対決は3連戦の予定だったが、雨で2試合中止になった。
さほど雨は強くなったが、「平和台球場のバックスクリーン後ろの山が雨雲に覆われているときは必ず雨が降る」と西鉄側から中止理由が説明された。
すでに打撃練習もしていたロッテ側から「空模様が怪しくなったのを幸いに逃げたのか」という声が上がり、西鉄ベンチに向かって「やれるじゃないか。逃げるのか」とヤジった。
さらにこの年、ロッテに移籍した捕手・
村上公康に対し、西鉄の選手が、
「おい、西鉄の秘密をあまりばらすんじゃないぞ」と言うと、
「西鉄の秘密なんて誰も気にしてません」
と答えられ、ケンカ寸前になったこともあったらしい。
ただ、実はロッテもこの3連戦唯一の試合に勝って、ようやく3勝3敗。西鉄は2勝6敗とともにパッとしない。互いのイライラもあったのかもしれない。
大杉勝男(東映)と毒蝮三太夫の対談では、背番号話もあった。
大杉は51という背番号にこだわった男だが、このときは翌73年から3にするよう球団に頼んだという。
理由は、
「うちの娘がいま1歳5カ月なんですが、51という数字を覚えるまでに時間がかかりそうでしょ。3番なら、パパの背番号いくつと聞いたらすぐ答えてくれそうなんで」
と子煩悩ぶりがうかがえる言葉。さらに
「ただ、僕はいまの51という番号は大好きなんですよ。だから変える前に、背番号と同じだけホームランを打ちたいですね」
と話していた。
2020年はこれでラスト。再開予定は1月5日です。
週べ60年は遥か昔となってきましたが、この企画は、まだしばらく続けたいと思います。
では、よいお年を。
<次回に続く>
写真=BBM