歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 「ほとんど三振ですよ」

大選手へと成り上がった野村だが、若いころは苦労の連続だった(左は大杉勝男、右は張本勲)
野村克也が生まれたのは、日本海に面した丹後半島の網野町だった。21世紀に入って合併により京丹後市に再編されたが、民話『浦島太郎』の伝説も残る海産物の宝庫だ。少年時代は
巨人ファン、特に“赤バット”の
川上哲治にあこがれていたという。峰山高では甲子園への出場はなく、無名の存在だったが、プロ野球への夢は断ち切れず。当時は2リーグ制が始まったばかりで、球団の誕生や合併が繰り返されていた時期だ。
野村は授業中にプロ各チームのメンバー表を広げて、20歳代の捕手がレギュラーを務めているチームを消していった。当時は35、36歳くらいが平均的な引退の年齢。“消去法”で残った30歳代の捕手がレギュラーのチームは
門前真佐人の
広島と、
筒井敬三の南海(現在の
ソフトバンク)だった。父親を早くに亡くし、さまざまなアルバイトで家計を助けていた野村。新聞配達からアイスキャンディー売り、子守りなど。生活は苦しかったが、もしアルバイトの必要がない暮らしであれば、プロの道は開けなかったかもしれない。
新聞配達所にあった新聞を見て、野村は南海がテスト生を募集していることを知る。「社会人で野球を続けるつもりで、すでに鐘紡の試験を受けて一次は通っていた。でも、どんなもんか(南海のテストに)行ってみたいと思った。自分の実力を知るためにね。それで、野球部の部長だった清水(義一)先生に、その新聞を持っていって、『受けてみたいんです』と言ったら、『行ってこい。お前なら、ひょっとするぞ』と言ってくれた」(野村)という。清水先生は南海に紹介状を書き、南海の本拠地がある大阪への旅費まで出してくれて、なんとか合格。1954年に入団した。
だが、まともな練習もさせてもらえない日々。二軍のキャプテンには「あのテストはブルペン捕手を獲るため」と言われた。逆に、一軍のブルペン捕手として帯同していたことで、1年目から9試合に出場しているが、「終盤、選手がいなくなると代打で出ただけ。ほとんど三振ですよ」(野村)。実際には11打席で5三振だが、安打はゼロ。野村の回顧のように、まだ仕方なく代打に送られただけの選手だったことは事実だろう。
ちなみに、当時は月給が7000円で、そこから合宿費として3000円が引かれて、さらに1000円を実家へ仕送りしていた。「給料が上がって何万円と送るようになってから、『今よりも、苦しい中から送ってくれた1000円のほうが、おかあちゃんはありがたかった』と言われたことがある。親というのはそういうもんなのか、と思いましたね」と野村は振り返る。そんな1年目のオフのことだった。野村は「もう生きていけない」と思うほど追いつめられる。突然、解雇を宣告されたのだ。このとき、まだ19歳だった。
「不器用だからヤマを張るしかない」

56年、初めて本塁打王に輝いたときの野村
のちの野村の活躍を考えれば、野村の人生だけでなく、プロ野球の歴史が変わりかねない危機でもあった。野村は必死に頼み込んで、なんとか残留することになる。だが、翌55年には「こんな肩の弱い捕手はいらん」と、一塁手に転向。そこで、「いずれキャッチャーに戻ればいい」と考え、あらためて遠投や球の握り方を学んだことで、問題だったスローイングが格段に向上していく。ようやく風向きが変わってきた。一軍出場はなかったが、二軍では全試合に出場して強打を発揮。秋には捕手に戻してもらい、ハワイでのキャンプにも抜擢されて、ほかの捕手に故障や門限破りのペナルティーがあったことで練習試合に起用され、打ちまくった。
帰国して「唯一の収穫は野村の成長」と語った山本(鶴岡)一人監督は、その翌56年に野村をレギュラーで起用する。規定打席には届いていないが、野村は129試合に出場して7本塁打。続く57年が30本塁打で初の本塁打王だ。94打点、打率.302でも結果を残した一方で、リーグ最多の87三振。カーブが打てず、それは観客も分かっていて、「おい野村、カーブのお化けが来るぞ」とヤジられることもあったが、「不器用だからヤマを張るしかないと思って、投手のクセ、捕手のクセ、いろいろ観察した。だんだん分かってきましたね」と野村は振り返る。16ミリのフィルムを擦り切れるほど見てクセを探したこともあった。
同時に、捕手としても相手の打者を徹底的に分析して、リードに活用。打者として、そして捕手として、それぞれ蓄積した選手のデータは相乗効果となって、野村の攻守に結果を呼び込んでいく。
文=犬企画マンホール 写真=BBM