3年前に創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 自身の申し出か球団の指示か
今回は『1972年5月22日号』。定価は100円。
1972年4月21日、甲子園での阪神-
広島戦の前に阪神・奥井球団総務部長が記者たちに、こう伝えた。
「村山監督が皆さんに話すことがあるので、午後6時10分にプレスルームに集まってほしい」
その時間、青白い顔で表れた
村山実監督は、
「現在、投手陣が弱体なので、私がここで何とかしなければならないと思いまして。この際、私は投手に専念し、チームの采配は金田(正泰)ヘッドコーチに任せることにしました。これは現在の状態から逃げたわけではありません。不振の打開策を真剣に検討した結果、あくまで前向きな姿勢で考えたことです」
と話した。
不可解だったのは、奥井部長の言葉だ。
「さきほどの村山監督の言葉は球団発表ではありません。あくまで監督談話と受け取ってください」
その後、戸沢球団代表から、
「村山から申し出てきた。チームの状態がよくないだけに何らかの打開策を打たなければと考えており、了承した」
とあった。あくまで球団からの指示ではなく、村山自身の判断を強調したかったのだろうが、逆に怪しさも感じられる。
“監督”復帰について戸沢代表は、
「チームの勝率は5割か。あるいはそれ以上になったときかもしれん。村山が兼任でも大丈夫という線が出たときだ。村山の監督復帰というか兼任でいけると見たとき、私が判断して決めたり検討したりするつもりだ」
当時の阪神投手陣は、左ヒジ痛の
江夏豊をはじめ、若手が伸び悩み、壊滅状態だったことは確かだが、まだ8試合を消化したばかり(2勝6敗)である。
さらに言えば、村山は前年5月に痛めた左ヒザの状態が悪化し、太ももから足首までサポーターを巻き、鎮痛剤を飲んでから登板。現役復帰したからといって状況がどう変わるのか、もある。
「投手陣がご覧のとおりなので、俺は先発、リリーフでどんどん投げる。金田さんが一生懸命やってくれているんだから、俺は投げることに全力を傾けなきゃならん。4年前の村山になってね。いまの俺は何も言いたくないんや。すべてはグラウンドで証明してみせる」
村山の言葉に悲壮感があふれた。
金田コーチは、
「監督の気持ちが痛いほどよく分かる。1日も早く笑顔で監督に指揮を執ってもらいたい。とにかく1日も早くチームを軌道に乗せなくては。そして1日も早く村山タイガースに戻さなければならない。それがワシの任務や」
ただ、早くも元南海監督・
鶴岡一人、元
巨人ほか監督の
水原茂、さらに阪神OBの
吉田義男らが次期監督候補としてウワサに挙がっていた。
<次回に続く>
写真=BBM