近鉄ラストイヤーは選手会長の背中に

近鉄で15年間、背番号「8」を着けた梨田
2004年、本拠地の大阪ドームでの最終戦を前に、
梨田昌孝監督はナインに「胸を張って戦え。君たち全員が近鉄の永久欠番だ」と言ったという。そのシーズン限りで歴史に幕を下ろすことが決まっていた近鉄。もちろん正式な永久欠番ではない。そもそもプロ野球の永久欠番は球団あってのものだ。だからといって、近鉄の歴史も、その背番号の系譜も、消えてなくなるわけではない。この連載も永久欠番、あるいは限りなく永久欠番に近い状態となっている背番号の物語から紹介しているが、この梨田監督の言葉に準じて、こうした背番号に近鉄の背番号物語を織り交ぜてきている。梨田監督の“永久欠番”は「73」になるが、その一方で、梨田といえば選手としての「8」を思い浮かべるファンも多いことだろう。
梨田はドラフト2位で1972年に入団、このときは「52」で、登録名は「梨田昌崇」だった。1年目から一軍の試合を経験し、着実に台頭。レギュラーに定着した3年目から「8」を背負う。だが、故障で離脱すると、すぐにレギュラーの座を奪われる。同じく捕手で、プロ入りは1年だけ遅いが、年齢は2歳の上となる
有田修三だ。剛と柔、アリとナシ。まるでタイプの違う“アリナシ・コンビ”の切磋琢磨は近鉄の名物となり、そして“第1捕手”といえる存在が2人いる状態は、近鉄の伝統のようになっていく。
梨田は連勝すれば優勝が決まる88年10月19日の
ロッテとの最終戦ダブルヘッダー(川崎)、いわゆる“10.19”がラストシーンとなる。第1試合では9回表に代打で登場、決勝打を放って第2試合に希望をつなぐも、その第2試合では延長10回表に近鉄は無得点。既定による時間制限で、近鉄の優勝は消える。その裏に登場して最後のマスクをかぶったのが梨田だった。79年の初優勝、80年のリーグ連覇、そして88年の“10.19”。昭和を彩った近鉄を象徴する存在の1人であることは確かだ。
翌89年、梨田の「8」は一時的な欠番にもならず、ドラフト1位で入団した内野手の
米崎薫臣が後継者となり、その翌90年には遊撃の準レギュラーとして70試合に出場するも、94年に
阪神へ。この間に遊撃手として台頭した
吉田剛が「8」を継承する。だが、吉田も以降は出場100試合を超えられず、2000年シーズン途中に阪神へ。捕手のイメージもレギュラーの印象も薄れつつあった「8」だが、21世紀に入ると、ふたたび輝き始める。後継者は
礒部公一。「22」から「8」に変更した01年は梨田監督2年目でもあり、礒部はキャリア唯一の全試合出場を果たす。そして、ローズ、
中村紀洋に続く五番打者として圧倒的な勝負強さを発揮して、最後のリーグ優勝に貢献。04年には選手会長としてナインの先頭に立った。
「8」は礒部の“永久欠番”になり、礒部は「8」のまま
楽天で初代の選手会長にもなっている。外野手に専念して強打者に成長した礒部だが、もともとは捕手。そもそも「8」は、近鉄1年目から捕手の芳村嵓夫が着けて第1捕手として活躍するなど由緒ある(?)捕手ナンバーだ。
“第1捕手”によるリレー

近鉄最後の背番号「8」は礒部だった
最長は梨田の15年で、梨田より前の選手たちは短期間ながら、やはり捕手が目立つ。梨田の前任者は“ヒゲ辻”こと
辻佳紀で、阪神から移籍してきて4年間。阪神の名二塁手として知られる
鎌田実の3年を挟み、東映(現在の
日本ハム)から加入した“ケンカ八郎”こと
山本八郎も4年間、「8」を着けている。
さらにさかのぼっていくと、
中日の司令塔だった
吉沢岳男が1年、外野手の
十時啓視と
渡辺博之が2年ずつ着けたのを挟み、のちに監督、フロントとして
西武やダイエー(現在の
ソフトバンク)などで黄金時代の礎を築いて“球界の寝業師”の異名を取った
根本陸夫がいる。根本は近鉄の「19」でも紹介した
関根潤三と学生時代からバッテリーを組んでいた捕手で、52年から57年までの6年間を「8」で過ごしたが、選手として活躍できたのは110試合に出場した53年のみだった。
とはいえ、近鉄2年目から「9」となった吉沢の牙城を崩せなかった山本を除き、初代の芳村から根本、吉沢、辻、そして梨田と、「8」が第1捕手だったシーズンは必ずある。
【近鉄】主な背番号8の選手
根本陸夫(1952~57)
山本八郎(1963~66)
辻佳紀(1970~73)
梨田昌孝(1974~88)
礒部公一(2001~04)
文=犬企画マンホール 写真=BBM