50年代と90年代の最強エース
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90年代に「11」を着けて巨人投手陣を牽引した斎藤
今やプロ野球のエースナンバーとしての地位を確立している「18」。そのルーツとなったのは巨人という説が有力なことは紹介したが、その巨人でエースナンバーとなったのがV9時代だとしたら、プロ野球のエースナンバーという印象が普及したのは、さらに後の時代ということになる。一方、かなり早い段階で10番台の背番号は投手ナンバーという印象が定着しており、エースナンバーの概念は希薄でも、エースをイメージさせる背番号は存在した。それが「11」だ。
「十八番」(おはこ)という言葉があったことで日本人に浸透しやすかったともされる「18」の一方で、10番台の1番でもある「11」がエースの背番号とされるのも自然の流れだろう。その起源とされるのも巨人だ。そんなエースナンバーの“本流”といえる巨人の「11」だが、平成のプロ野球を知るファンが真っ先に思い浮かべるのは
斎藤雅樹ではないか。すでに「18」がエースナンバーとして定着していた時代に、
槙原寛己、
桑田真澄と“先発三本柱”を形成。「18」は桑田だったが、“90年代の最強エース”といわれたのは斎藤だ。MVPの90年まで2年連続で20勝。桑田もシーズン20勝には最後まで届かず、90年代の10年間では斎藤の126勝が最多だ。
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巨人移籍2年目から「11」を背負った別所
ただ、シーズンでも通算でも斎藤が届かない巨人の「11」が
別所毅彦だ。南海で「12」のエースだった別所は大騒動の末に巨人へ。ペナルティーもあった移籍1年目の49年は「29」だったが、2リーグ制となった50年に「11」を背負うと、52年には33勝、防御率1.33の投手2冠。日本シリーズでも古巣の南海を下して、シーズンとシリーズでMVPをダブル受賞した。コーチ兼任となった61年オフに引退。指導者として62年も「11」を着け続けた。
別所の通算310勝のうち、巨人の「11」で挙げたのは207勝。本格的なブレークイヤーとなった89年にはプロ野球記録の11連続完投勝利もあって“ミスター完投”の異名もあった斎藤だが、巨人へ移籍する前の別所が47年に残した47完投もプロ野球記録だ。2リーグ制となって間もない時代の野球少年、特に投手は誰もが別所の「11」にあこがれていたという。
ただ、別所が移籍してくるまでは野手の背番号だった。プロ野球が始まる前年の35年は
倉信雄で、36年から37年、欠番を挟んで復帰した41年は
内堀保。ともに捕手で、内堀は剛球で鳴らした
スタルヒンが信頼したことでも知られる。戦後の46年は小松末広が着けるも一軍出場なく、すぐに
古家武夫が継承、48年からは49年まで
内藤博文が背負う内野手リレー。別所が「11」の投手としては第1号となる。
昭和と平成のリリーバー
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巨人で左のリリーバーとして活躍した角も「11」を着けた
1年の欠番を経て別所の後継者となったのが
渡辺秀武。V9前半の巨人で長身からのアンダースローで印象を残した右腕で、70年にはノーヒットノーランを達成している。渡辺とのトレードで73年に後継者となった
高橋善正(良昌)は東映(現在の
日本ハム)で完全試合を経験した右腕だが、巨人ではリリーフが中心。ここからリリーバーが多くなり、高橋の引退で78年に継承したのが
角三男だ。
だが、巨人が大洋(現在の
DeNA)から内野手で「11」のシピンを獲得したことで、すぐに”剥奪”されて「45」に。「12」を経てシピンの退団で「11」に戻った81年に8勝20セーブで4年ぶりリーグ優勝、日本一に貢献した。左のサイドハンドからの荒れる快速球で左打者の脅威となって、89年シーズン途中に日本ハムへ移籍するまで「11」で活躍し続けた。
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現在はドラフト1位の平内が「11」を背負う
斎藤の引退で1年の欠番を挟んで継承したのがリリーバーの
久保裕也だ。10年にはリーグ最多の79試合で自己最多の32ホールドをマークするなど、セットアッパーとして機能。だが、久保の移籍からは安定感を欠く。16年に
ロッテから獲得したクルーズは二塁守備でもシピンの後継者だったが結果を残せず。18年はメジャーから復帰した
上原浩治が代名詞の「19」を
菅野智之が着けていたことから「11」に。19年に「42」から変更した
山口俊も1年でメジャーへ移籍した。20年は欠番。そして21年、ドラフト1位で入団した右腕の
平内龍太が背負う。
【巨人】主な背番号11の選手
別所毅彦(1950~62)
渡辺秀武(1964~72)
角三男(1978、81~89)
斎藤雅樹(1990~2001)
久保裕也(2003~15)
平内龍太(2021~)
文=犬企画マンホール 写真=BBM