来日当初は不振も……

来日直後は内角球に詰まったり、外に逃げる変化球を空振りすることが多かったが、バットを軽くしてから大変身したハウエル
1983年、エンゼルスと契約し、85年メジャー昇格した
ジャック・ハウエル。
ヤクルトに入団したデシンセイの後の三塁に入った。87年は自己最多の23本塁打。9月5日には、全米で中継があった試合で、バットを折りながらヤンキー・スタジアムの右中間に叩き込み、“ブロークン・バット・ホーマー”として一躍有名になった。
「折れたバットが飛んでいったんで、その行方を見ていたんだ。それからボールを見たら、右中間スタンドに。あんなこともう一度やれと言われても絶対できないね」
パドレスを経て92年ヤクルトへ。間に入ったのが、代理人となっていたデシンセイだった。しかし両足の肉離れもあって、オールスターまで8本塁打に終わり、
野村克也監督のタメ息も深くなるばかり……。だが、球宴明けからは別人のように打ちまくる。
「救援で休めたのがプラスになった。あとは家族が来日したのと、伊勢さん(
伊勢孝夫コーチ)に言われ、バットを短く、軽くしたのも良かったね」
7月29日には
広島戦(神宮)でサイクル安打も記録、8月は13本塁打で月間MVP。最終的には38本塁打、打率.331でホームラン王&首位打者、MVPにも輝く。後半戦だけなら30本塁打、打率.368だ。しかし、迎えた
西武との日本シリーズは大不振。16三振、打率.133に終わっている。
93年はオープン戦途中で背筋痛。4月は低迷したが、5月15日の
中日戦(福島)でサヨナラホームラン。その後、28日の横浜戦(千葉マリン)では13回裏、6月22日広島戦(神宮)では10回裏、7月は4日の
巨人戦(神宮)で9回裏、14日の横浜戦(神宮)で11回裏と5本。1シーズンのサヨナラ本塁打の記録は
王貞治(巨人)らの3本だったが、大きく抜く。西武との日本シリーズでも第1戦の初回に先制3ランで流れを一気に引き寄せ、日本一へ勢いをつけた。
しかし、94年は背筋痛が悪化し不振。自由契約となり、95年巨人に移籍したが、夫人との離婚訴訟もあって途中帰国。そのまま退団した。
写真=BBM