左打ちの巧打者として巨人、オリックスで活躍した四條稔さんは現在、故郷・山梨で野球塾を開いている。94年限りで引退したパンチ佐藤さんは95年にオリックスへ移籍した四條さんとプロではすれ違いだったが、2人は社会人時代に接点があった。山梨を訪ねたパンチさんは、かつての「チームメート」四條さんと再会を果たしたのだった。 ※『ベースボールマガジン』2020年10月号より転載 即戦力だった1年目、アメリカに飛ばされて……

巨人時代の四條さん
パンチさんと四條さんの出会いは1986年、社会人野球・関東選抜チームの台湾遠征にさかのぼる。
「三菱自動車川崎にヨジョウだかシジョウだか読み方は分からないけど、すごい奴がいる」という噂を前々から聞いていたパンチさん。「結構デカい奴だな」が、最初の印象だった。それから時が流れ、95年。オリックスに移籍した四條さんに与えられたロッカーは、前年退団したパンチさんの使っていた場所だったという奇縁も。まずは懐かしい社会人時代の思い出から振り返る。
パンチ あの台湾遠征のとき俺、四條君のバッティング技術にもびっくりしたんだよ。「このピッチャーは長いバットにしてちょっとすくってホームラン狙ってやれ」とかつぶやきながら、そこにあった一番長いバットを持って打席へ。スパーンッとすくって、本当にホームランを打ったんだよ。「おおっ!! すごい技術だな」と思ったね。
四條 佐藤さんはバットコントロールがすごかったです。オール関東の中でも1位だったと思います。
パンチ ありがとうございます! 社会人に入ってから、「もしかして俺、プロに行けるのかな?」と思い始めた時期はいつごろ?
四條 1年目、一緒にやったキャッチャーの方がプロにかかったのを見て、僕も行けるんじゃないかなとは思ったんですが……。
パンチ 身近な基準ができたんだね。
四條 現実的に考え始めたのは、2年目ですね。ジャパンの合宿に行ったときのメンバーが、結構プロに進んだんです。僕は高卒なので、社会人に3年以上在籍することがプロ入りの条件。それで、3年目はずっと意識していました。結局、会社の事情で、プロ入りは4年目になりましたが。

パンチ氏(左)、四條さん
パンチ ジャイアンツに入って最初のキャンプとかオープン戦とか、どうだった?
四條 1年目、キャンプから帰ってきたところで、そのまま1年間、(米国)ツインズの1Aへ野球留学に送り出されました。
パンチ それはつまり、将来有望株だったということなんだろうけど、本人的にはうれしかったの? うれしくなかったの?
四條 社会人出は即戦力、と考えられているじゃないですか。僕も1年目から試合に出られるよう頑張ろう、と思っていたので、「飛ばされた」感じがしましたね。
パンチ だけど今思えば、そのアメリカ生活はよかったんじゃないの? 勉強になったことも、あったでしょう。
四條 日本の野球と全く違う野球があると感じましたね。監督と選手の間に日本ほど上下関係がなくて、選手も言いたいことを言う。要は自己責任で、逆に言うと、だからこそ厳しい部分もある。クビになるのも早いですよね。その中で僕が向こうに行って一番よかったなと思ったのは、当時社会人は金属バットだったので、向こうで1年間木製バットに慣れる時間をもらえたことです。
パンチ それを思うと、ラッキーな1年だったね。アメリカから帰ってきたオフには、「よーし、これで来年は」と思えたんじゃない?
四條 それが、一旦帰ってきたんですけど、2週間ぐらいでまた1カ月半ほどアリゾナ教育リーグに参加することになりまして……。そこで一応首位打者を獲って、(巨人の)首脳陣にアピールできたんです。でも、そのあとも帰してもらえず春季キャンプの時期まで、UCLAでトレーニングしていました。
パンチ しかしそう考えると、ジャイアンツは四條君を本当に丁寧に、じっくり育ててくれたんだね。
四條 いろいろな経験をさせてもらいましたね。
パンチ 当時、ジャイアンツはどういう状況だったの。
四條 入団した89年に、近鉄と日本シリーズをやっています。
パンチ 今冷静に考えると1年目、もし日本にいたら、そこに食い込めた? それとも食い込めなかったから、アメリカに出されたんだと思う?
四條 ジャイアンツってもともと、いろいろな選手を使うのではなく、レギュラー固定が理想なんですよ。
パンチ 一番から九番まで。
四條 また選手が揃っているから、固定できちゃうんです。ただレギュラーの年齢が上がってきているわけだから、頑張り次第ではそこに入っていけると思っていました。
パンチ そのときファーストは中畑(
中畑清)さん?
四條 中畑さんが89年に引退して、駒田(
駒田徳広)さんが外野からファーストに回って、もう固定です。
パンチ それで外野はどうなったの?
四條 僕がアメリカから帰ってきたとき、吉村(禎章)さんがちょうどケガから復帰したばかりぐらいで。1年目は
クロマティもいたし、間もなく緒方(
緒方耕一)、井上(
井上真二)の熊工コンビが出てきました。
パンチ じゃあ実際ジャイアンツでベンチ定着したのは、何年目ごろ?
四條 基本的に僕、定着しているようで、していないんですよ。1年おきに、あちこちケガをしてきましたから。
二軍でも腐らずに真面目にやっていたら声がかかる

オリックスでは96年日本一メンバーに
パンチ そこからどういう経緯でオリックスへ?
四條 僕がプロ2年目のとき、藤田(
藤田元司)監督が中西(
中西太=元西鉄)さんを臨時コーチとして呼んできたんです。その中西さんが仰木(
仰木彬)監督の下でオリックスのコーチになったご縁から、オリックスへ移籍することになりました。
パンチ セ・リーグとパ・リーグの違い、ジャイアンツとオリックスの違いはどんなふうに感じた?
四條 僕はパ・リーグのほうが合っていましたね。野球が細かくなくて。
パンチ そうだね。バーッと投げて、バーッと振るんだもんな。
四條 ただ、オリックスに関しては細かくなかったですか?
パンチ 細かいというより、まず一生懸命やらないとダメだよね。仰木監督はああ見えて、よく見ているから。冷たいところもあるんだ。
四條 1回ダメだってなると、スパンと切りますよね。僕もそうでした。
パンチ そうなの? 俺、オリックスで結構活躍しているイメージがあったよ。
四條 95年シーズン途中、トレードされたときは手術明けだったのでシーズンはダメだったんですが、秋季キャンプで認めてもらって、翌年のキャンプからオープン戦にかけては結構打ったんです。当時千葉
ロッテの抑えだった左の河本(
河本育之)からバックスクリーンにホームランを打ったりして、開幕からスタメンで使ってもらったんですよ。だけどシーズン後半になって疲れが出てきたころ、ダラダラ練習しているように見えたらしく、仰木監督に「帰れ!」と怒鳴られて。そこからあまり使われなくなりました。
パンチ オリックスは4年だっけ。
四條 そうです。でも実際、僕が試合に出たのはほとんど守備固めですよ。どうしたら一軍で試合に出られるかといえば、自分にはそのポジションしかなかったんです。当時
D・Jという外国人選手がいて、守備が下手だったので、主に彼の守備固め。3回ぐらいでリードしていると、もうD・Jと交代して、守備固めに入る。すると、僕にも2打席くらい回ってくるんです。
パンチ 生きる道を見つけて、チャンスを生かしたわけだね。
四條 ただ、オリックスでもケガが多くて、だましだましやって4年目なんかほぼ二軍。「そろそろヤバいな」と思う一方、ヒザの痛みさえなくなればできると信じて、腐らずにやっていました。
パンチ そこが四條君は偉いよね。ちゃんと自分の生きる道を探して、どんな状況でも腐らず、頑張れたわけでしょう。俺はすぐ、すねちゃうんだよ。
四條 いや、もちろん一瞬はありますよ。でも二軍で真面目にやっていたので、他球団のスカウトの方々に「お前、こんなところで何やってんだ」「何かあったら連絡してこいよ」と声を掛けていただいた。それで、オリックスをクビになったあとベイスターズの米田スカウトに電話して、秋季練習に参加したら獲ってもらえたんです。
パンチ 俺は二軍でもきっちりやっていれば他球団も見ているんだっていう意識が全くなかったね。腐ったりキレたり落ち込んだりしちゃいけないんだ。二軍でも淡々とやっていれば、見ている人は見ていてくれるんだね。
四條 そうですね。ジャイアンツのころも、バンっと活躍したあとにケガをして二軍にいると、他球団のコーチが「ウチに来いよ」って声を掛けてくださったことがありましたから。
99年、横浜ベイスターズに移籍した四條さんは、山下(
山下大輔)ヘッドコーチに「マイペースでやりなさい」と言われ、二軍キャンプで調整。満を持して、オープン戦から一軍に合流した。ところが合流初日、セカンドへの帰塁で古傷のヒザを故障。その後は復調しても、チーム事情などから上に呼ばれることなく、二軍でシーズンを終えた。
たまたま「オーナー募集」の看板を見つけ、面接に
パンチ ついに、「来る日が来た」と思ったわけか。そこから、すぐコンビニのほうに行ったの? 俺、聞いたときびっくりしたよ。どうしてコンビニだったの?
四條 いや、そんな理由はないんですけど、たまたま車を走らせていたとき、オーナー募集の看板を見たんです。それで応募して、面接に行きました。
パンチ「ジャイアンツの四條が来た」って、大騒ぎになったんじゃない?
四條 こちらからは言わないですよ。面談で、「前は何をされていたんですか?」と聞かれて「野球を」と答え、初めて「ええっ!? あの四條さんですか?」と。正直、それで契約できたのもあるとは思いますが、24時間営業のコンビニなので、何より人を見ているように感じました。
パンチ 目黒駅の近くでしょう。都心のいいところに店を構えたんだね。ところでコンビニを経営するには、どんなものが必要になってくるの?
四條 食品衛生管理と防火管理責任者、酒類販売業免許ですね。特に最初の2つは持っていないことには店を開けないので、すぐ取りました。
パンチ 一番大変だったのは何ですか?
四條 やはり人ですね。24時間コンビニを開けていても、僕が24時間管理することはできませんから。自分が店にいない時間帯をきちんと任せられる人を探すのに苦労しました。
パンチ 店が続いたということは、そういう人が見つかったということだね。結局何年やっていたの?
四條 15年やりました。
パンチ うわ、すごいね!
四條 今は10年なんですが、当時の契約は15年満期だったんですよ。15年やらないと、違約金が発生してしまうんです。
パンチ その15年、野球でいったら何打数何安打ぐらいの手応え?
四條(笑)。長い人生で考えたら、いい勉強にはなりました。
パンチ 満足度でいうと4の1? 4の2?
四條 前半と後半では違いましたね。前半の売り上げは、二軍の選手よりもらえるような金額だったんです。
パンチ 4打数2安打、3打点くらいかな。じゃあ後半は?
四條 僕の店があった通りには、オープン当初、コンビニが1軒もなかったんです。逆になんでなかったのか不思議なんですが、競合他社のチェーン店が「ここは儲かるんだ」と次々店を作ったので、売り上げが落ちました。だから後半は結構キツかったですね。
パンチ 4打数1安打ぐらいかな?
四條 最後のほう……12年目の途中ぐらいからは、店は人に任せて、僕はこちら(山梨)に移っていました。
パンチ じゃあ4打数1安打、打点0にしておこう。
四條 それ、毎回やってるんですか?(笑)
パンチ いやいや、今たまたま思いついたの。じゃあ、儲かったというよりは人生の勉強になったんだね。人を雇う、人を使う……。
四條 あと、一番は人に頭を下げること。野球選手はあまり頭を下げることのない職種だったので。コンビニに行ってからは、人と笑顔で接したり、人に頭を下げたりすることの大切さをあらためて学びましたね。まあ、笑顔は元から自然にできていましたが。
平等な声掛けでやる気を出させる
パンチ それで山梨に戻って、この野球教室を始めたんだ。
四條 最初、山梨にBCリーグの球団創設の話があって、「監督をしてくれないか」と呼ばれたんです。球団の立ち上げにあたって、地元企業への挨拶回りなどGMとして動くことになりまして。その間の収入を補うため、甲府市内で野球塾を始めたんです。
パンチ 初めはここ(昭和町)じゃなかったんだ。
四條 そうです。ところが球団創設がとん挫して、野球塾もその場所で続けられなくなって困っていたところを、小中学校時代の野球部の先輩に助けられました。先輩が社長を務める会社の倉庫の上のスペースを、野球塾用に電気代、水道代込みの格安で貸してくださっているんです。
パンチ 俺、てっきり四條君はこの会社で仕事しているんだと思っていたよ。だけどいいねえ、先輩、後輩のつながり。さて、ここでのモットーは?
四條「感謝の心、素直な心、あきらめない心」を上達するための三カ条として、野球ノートの最初に書かせています。
パンチ 今の子って、難しい?
四條「違うよ」とか「ダメだよ」と言うと、すぐやる気をなくしちゃうんです。だから言葉の掛け方には気を使っています。もっとも、プロ野球選手も同じようなものなんですけどね。
パンチ 四條君自身、この人の言葉で奮い立ったっていう指導者はいる?
四條 ジャイアンツ時代の高田(
高田繁)ヘッドですね。ジャイアンツって、完全に一軍と認めない選手には選手もコーチもまともに声を掛けてくれなかったんですよ。でも高田さんは僕が83試合で3割打ったとき、「なんだよお前、なんでこんなに打てるのにスタメンで出られないんだ」って。「あなたが決めてるんじゃないですか」って思いましたけど、必ず笑顔でそうやって声を掛けてくれたんです。
パンチ やっぱり声を掛けてくれると、見てくれているって感じるもんね。
四條 そうです。だから僕もここではもちろん、少年野球、シニアなどでコーチをするときも、必ず全員平等に声を掛けることを意識しています。
パンチ ところでジャイアンツのOBスカウトになったってニュースで見たけど、あれはどういう立場?
四條 山梨をカバーしているスカウトに「こんな選手がいますよ」と地元の有望選手の情報を送るんです。ドラフトにかかる年代より前の中学生ぐらいから、家族構成、性格といった部分も含めて追いかける。技術なんかはプロに行ってから伸びるので、むしろ性格なんかのほうを重視します。
パンチ 親御さんの教育とかね。
四條 僕らOBスカウトが加わって、より綿密なスカウト網を全国に広げることが狙いです。
パンチ 今後の目標、夢はなんですか。
四條 今はキャンプにハマっているんで、山を買って山暮らしをしようかなと思っています(笑)。
パンチ いくつぐらいになったら?
四條 60歳過ぎたら。山はいいですよ。山歩きをするとヒザがガクガクすることもありますけど、なんだか「生きている」っていう感じがします。
パンチの取材後記
社会人の名門・三菱自動車川崎から即戦力としてジャイアンツに入団、その後移籍したオリックスでは日本一、と華やかな世界を渡り歩いてきた四條君。でも何十年ぶりかに再会した四條君はちっとも派手なところがなく、社会人時代に手取り10万にも満たない給料で必死にボールを追いかけていた、あの素朴な青年そのままでした。
どっしりした、頼もしい風格がありながら、どこかほわーんとした笑顔で和ませてくれる。だから、あの台湾遠征のときも、台湾の女の子にモテたんですよ(笑)。
そんな四條君から今回は、どんなことがあっても焦らず、腐らず、落ち込まず、一生懸命やることの大切さを、あらためて教わりました。野球塾の子どもたちのために今も一生懸命、いろんな本を読んで勉強している四條君。「60歳になったら、隠居して山暮らし」なんて言っているけれども、もったいないよ。今の仕事は、四條君にピッタリ。子どもたちのためにも、もう10年延ばして、70歳までは頑張ってほしいなと思いました。
●四條稔(よじょう・みのる)
1966年9月27日生まれ、山梨県出身。東海大甲府高から三菱自動車川崎を経て、ドラフト4位で89年巨人に入団。95年開幕直後にオリックス移籍。96年は自己最多の108試合に出場し、日本一に貢献した。99年に横浜へ移籍し、同年限りで引退。通算成績は実働8年、279試合、打率.255、2本塁打、23打点。その後は都内でコンビニ
エンスストアを経営したのち、現在は「山梨ダイヤモンドキッズ・ベースボールアカデミー」を設立し、野球指導に務めている。https://ydk-club.com/
●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。
構成=前田恵 写真=山口高明