トレードは「良かったと思った」

阪急時代の島谷。ややヘッドを投手側に倒す構えが特徴で阪急では苦手の内角を克服した
不器用だが、階段を上るように着実に進化を続けていったのが
島谷金二だ。高松商高から四国電力を経て、1969年
中日入団。サンケイ、東映、東京(
ロッテ)のドラフト指名を拒否し、4球団目だ。
「球団の好き嫌いじゃないですよ。自分には無理と思っていたからです。中日のときは、23歳でしたし、最後のチャンスと思って決断しました」
社会人時代は二塁手だったが、高松商高の先輩でもある
水原茂監督に言われ、三塁手転向。1年目から125試合に出場したが、打率は.210と振るわず、三振は107。それでも水原監督は我慢して使い続けた。
74年のVイヤーは初の規定打席未到達で打率も.259だったが、「北海道遠征で足を痛め、一時は打率も落ちたけど、足を引きずりながら持ち直せたことが自信となった」と振り返る。言葉どおり、75年には打率.280、20本塁打、初のフル出場でダイヤモンドグラブ賞も獲得した。
しかし76年オフ、突然の移籍。3対4のトレードで阪急入りが決まった。島谷の人の良さだが、交換要員に前年12勝の
戸田善紀がいたのを見て、「良かったと思った」と言う。
「僕自身、今のチームに10勝できる投手が欲しい。そうしたら優勝できるのにと思っていた。中日には感謝しかないんですよ。ずっと我慢して使ってくれましたしね」
移籍1年目の77年には途中から四番打者としてリーグ2位の打率.325で優勝に貢献。好調の要因として「阪急は、いいバッターが多かった。福本(豊)、加藤(秀司)らのバッティングを近くで研究できたのは大きい。特に加藤の内角のさばき方は参考になりました」と振り返る。
79年は、その加藤と打点で競ったが結局、102打点。加藤には2打点及ばなかった。「9月に18打点リードしたんですが、頑張り過ぎて日本シリーズに影響が出ちゃいけないと思ったら、そこから伸びなくて。どうせ僕は二番手が似合っているんです(笑)」
82年には
上田利治監督から「若手の松永(浩美)を使いたいから」と言われて出番が激減。同年限りで引退した。
写真=BBM