3年前に創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 近未来につながる選手たち

のちにヤクルトの球団代表、球団社長を務めた田口
今回は『1972年10月2日号』。定価は100円。
順調にイースタンの首位を快走していたヤクルトが連覇を決めた。
9月12日の大洋多摩川球場、12ゲーム差をつけていた大洋相手に延長11回で勝利を飾り、9試合を残し優勝を決めた。
胴上げされた田口周監督は言う。
「いやあ、三原(脩)監督をはじめフロント陣が
大勢見にきてくれるでしょ。きょうは是が非でも決めなきゃと思ったら、つい力が入ってね。神経がまいってしましましたよ」
田口監督は2年前に就任だったが、そのときのテーマが「じめじめムードの一掃」だった。
「いくら練習したって、いやいややったんじゃいつまでたっても上達しない。野球はまず楽しくやらなきゃいけません」
田口監督の経歴は超異色だ。日大卒業後、母校・日大三高のコーチ、新聞記者、日大三高監督、また新聞記者を経てのヤクルト入り。コーチのあと71年から二軍監督となった。
抜擢した三原監督は、
「田口君のプロ経験がないところは私たちがカバーします。だから田口君はプロ経験者にはないフレッシュな感覚で指導してもらいたい」
と話していた。
チームは最多勝の新人・
松岡清治(初出修正)、首位打者の
杉浦享が両輪で、捕手には
八重樫幸雄もいた。
この年のヤクルト、一軍は4位に終わったが25歳組の
松岡弘、
安田猛、
大矢明彦、
荒川堯、
若松勉らが主力になり、打者は名コーチ、
中西太が独特のティーバッティングで鍛え上げていた。
花開くのは少し先だが、チームづくりというのは礎が大事なのだな、とあらためて感じる。
なお、ヤクルトの選手寮で、他球団がうらやむのが、月平均2万5000円の食費を全額球団が持っていることだと書いてあった。ほかは選手負担もあったということか。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM