8割は速球のスタイル

上から投げ下ろす投球スタイル。投げた後、右手が地面について、何度も突き指したという
まさに閃光のように、球界を駆け抜けた男だ。実際には170センチに満たぬ身長ながら、全身をフルに使った豪快なフォームから投げ込む快速球は160キロ以上とも言われる。
山口高志は市神港高時代から快速球投手として知られ、3年時に春夏連続で甲子園出場。関大では通算46勝、日米野球では日本の4勝中2勝を挙げ、のち
巨人にも在籍した
クロマティらのメジャー予備軍をストレート一本で完全に抑え込んだ。当然、プロの大争奪戦となったが「自分は背が低いからプロは無理」と明言。1972年のドラフトで
ヤクルトが4位で強行指名も拒否し、松下電器に進んだ。
しかし、次第にプロへの夢が生まれ、74年秋、阪急に指名されたときはすんなり入団を決めた。当初、山口はプロは速球一本では難しいと考え、唯一持っていたカーブを交え、制球にも気を配ったが結果が出ず。開き直って8割は速球のスタイルにしてからがすごかった。
先発、抑えでフル回転。パの各球団は“山口包囲網”を敷き、「必ずボールになるから手を出すな」と指示した高めで空振りした近鉄・
羽田耕一に
西本幸雄監督が平手打ちした逸話も残る。
前期優勝、プレーオフの胴上げ投手にもなり、
広島との日本シリーズでも速球をひたすら投げ込んだ。第1戦では西宮球場の屋根の影がマウンド近くまで伸びていたこともあり、「速過ぎて球が見えない」と広島の打者が口をそろえた。5試合に投げ、1勝2セーブ、阪急に初の日本一をもたらし、MVPにも輝いている。
しかし、その全盛期は短い。77年の日本シリーズ後に腰を痛め、「しばらくして治ったが、もう元のフォームで投げられなくなった」という。78年には最優秀救援投手にもなっているが、それが最後の輝きだった。その後、アキレス腱痛などもあって結局、82年に引退。
「僕のフォームは80パーセントでは投げられない。だから下位打線でも全力投球なんです。短かったけど、後悔はないですよ。この体で150キロ以上の球を投げ続けたんだから、もう体を使い切ったということでしょう」
写真=BBM