89、90年のリーグ連覇に貢献

柔らかいバットさばき、ミートのうまさから若手時代は“篠塚利夫2世”と言われたこともあった
病気にかかり、任意引退選手となりながらもはい上がり、さらには激しいポジション争いも勝ち抜いた努力の人が
巨人・
岡崎郁だ。大分商高時代は投手と遊撃手。3年時には春夏連続で甲子園に出場。巨人からドラフト3位で指名を受け、1980年に入団した。
層の厚い巨人の内野陣の中で一軍定着できずにいたが、まずまずの成績をファームで残し、一軍入りが間近となっていたプロ入り5年目の84年、岡崎は胸膜炎を患ってしまう。自主トレ初日、胸部のレントゲンを撮ると、肺の右下が映っていなかった。動くと右ワキ腹に激痛が走り、深く息を吸い込むことさえできない。任意引退選手扱いでリハビリ生活を送った。
長い療養生活を終え、翌85年の3月8日のオープン戦でついに復活。この日は岡崎にとって忘れられない1日となった。地元・大分県営球場での
日本ハム戦。両親や
大勢の知人が見守る中、見事サヨナラ本塁打を放ったのだ。
「ツイてない男だと思っていたけど、あの病気を境に、ツキがまわってきたみたいですね」
この年から遊撃手として一軍に定着し、徐々に出場機会を増やしていき、89年にはオープン戦で打率.396をマークして首位打者に。シーズンが開幕すると、
中畑清のケガもあって三塁手にコンバートされたが、守備もそつなくこなし、初の規定打席に到達。下位ながら勝負強い打撃で“恐怖の六番打者”とも言われ、89、90年のリーグ連覇に貢献した。
病気を克服して以来、より真摯に野球に打ち込んだ岡崎。グラウンドに戻って来た際に、当時の
国松彰二軍監督から送られた「能力の差は小さいが、努力の差は大きい」という言葉も、心の支えとなった。後輩、ベテラン関係なく叱咤激励し、積極的に声を出してチームをけん引。90年からは選手会長も務めた。
若手の台頭もあり、12試合の出場にとどまった96年限りで現役引退。のちに巨人で一軍ヘッドコーチや二軍監督を務めた。
写真=BBM