3年前に創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 すべてフォークで3三振

マウンドに向かう村山
今回は『1973年4月9日号』。定価は100円。
「ファンの皆様ありがとうございました!」
マイクに向かい、振り絞るような声で叫ぶと、スタンドに向かって高々と両手を上げた。
この日(1973年3月21日)、
阪神・
村山実が球場にやってきたのは午前11時少し前だった。
希代の大投手にして、72年の兼任監督。説明すると長くなるので省略するが、ドタバタの末、事実上の解任となり、そのままユニフォームを脱ぐ決断をした。
野球から離れてしばらくたつので、少し前から自身がお世話になっているSSKの社員で元阪神の中村や後援者の息子で中学生の
岡田彰布(のち阪神ほか)ともキャッチボールをしたという。
朝からかなり強い雨。せっかくの引退試合の開催が危ぶまれた。それでも10時ごろには甲子園球場に200人ほどのファンが集まり、雨に打たれながら開門を待っていた。
11時、試合実施が決定。30分後に
巨人ナインが到着した。残念ながら頭部死球のため治療中の
長嶋茂雄の姿はない。「できればベンチ入りはしたい」と最後まで言っていたという。
13時25分に試合が開始した。球場はいつの間にか4万8000人の大観衆で埋まっていた。試合前に村山の表彰セレモニーが行われ、ファン代表として村山が母親のように慕う浪花千栄子さんが花束と記念品を贈った。
「村山はん。あんたは男や。これからが勝負でっせ。がんばってくれなはれ」
と声をかけられ、村山の涙腺が緩んだ。
先発は巨人が
堀内恒夫、阪神が
上田二朗だった。村山の出番は上田から
若生智男につないだあとの7回だった。
いつもにようにブルペンに迎えに来たスクーター(リリーフカーのようなもの)に乗ろうとした村山を後輩の
江夏豊が手でさえぎる。
「僕の肩に乗ってください」
いつの間にか、村山の周囲にはブルペンにいたバッテリーが集まっていた。ここから後輩たちが江夏を先頭に騎馬をつくって村山を乗せてマウンドへ向かう。
ファンから涙交じりの大歓声だ。少し前まで村山と江夏の確執も噂されていたが、2人の顔にはなんのわだかまりもなかった。
村山は言う。
「私は江夏の肩の上で、泣いていた」
捕手の
田淵幸一がマウンドに行くと、目を真っ赤にした村山が言った。
「ブチよ、きょうはノーサインでいこう。全部フォークボールでいくからな」
そして
高田繁、
末次民夫、
王貞治と3者連続三振。のち「どうせ涙でサインは見えない。最初から決めておこうと思った」と語った村山だが、真っすぐではなく、すべてフォークを選んだのは、それならば打たれないという自信もあったのだろう。
志半ばでユニフォームを脱ぐ村山の意地でもあったのか。
試合終了後のセレモニーでは、阪神・戸沢球団社長から背番号11の真新しいユニフォームが村山実に手渡された。
藤村富美男に続き、阪神では二番目の永久欠番である。
そのあと、村山はマイクの前に立った。
「巨人の皆さんありがとうございました。タイガースの方、ありがとうございました」
そこで最後、ファンに向かって力いっぱい声を張り上げたのである。
虎の鉄腕・村山実。その投手人生で感謝の言葉とともに終わった。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM