ポストシーズンを含めると6度目
ペナントレースが再開した8月13日、
西武対
楽天戦(メットライフ)で、楽天の先発・
岸孝之は7回まで西武打線をノーヒットに抑えていた。岸は西武時代の2014年5月2日の
ロッテ戦(QVCマリン)でノーヒットノーランを達成していて、もし今回も達成すれば史上10人目の複数回、史上2人目の複数球団でのものだった。8回一死から
愛斗にライト前に運ばれ大記録は消えたが、翌々日の15日にはソフトバンクが日本ハム戦(PayPayドーム)で史上5度目(ポストシーズンを含めると6度目)の継投ノーヒットノーランを記録した。
ソフトバンク先発のスチュワート・ジュニアは初回、先頭の
淺間大基に死球を与えるが、その後5回まで9奪三振の快投。その後、
津森宥紀-
嘉弥真新也-
松本裕樹-
板東湧梧-
甲斐野央と小刻みに継投し日本ハム打線を無安打に抑えた。継投というだけでかなり貴重な記録なのに、チームも得点できず「引き分け」というこれまたレアな結末だった。
過去4度の継投ノーヒットノーランは以下の通り。
◎1941年6月22日 黒鷲(
中河美芳-
石原繁三)対名古屋
◎1941年8月2日 阪急(
江田孝-
森弘太郎)対名古屋
◎2006年4月15日 日本ハム(
八木智哉-
武田久-マイケル)
対ソフトバンク
◎2017年6月14日
巨人(
山口俊-
マシソン-
カミネロ)
対ソフトバンク
―日本シリーズ―
◎2007年11月1日
中日(
山井大介-
岩瀬仁紀)対日本ハム
※継投完全試合 最初の2つは戦時中の1リーグ時代。黒鷲の中河の本職は一塁手で選手不足の中投手も兼任していた。6回に3四球を出したところで石原に交代した。阪急の江田は、この試合まで通算未勝利の投手で、こちらも8回に3四球を出し、エースの森に交代していた。この年の12月に太平洋戦争へと突入していくのだが、個人の記録よりも「勝つこと」が使命の時代だった。
それから長い間この記録は生まれなかった。2000年発行の「ベースボールマガジン」のノーヒットノーラン特集でも「時代とともに消えていった記録」と題され、継投ノーヒットノーランが紹介されている。個人記録も尊重されるようになり、1本打たれるまでは代えないのが普通だったからだ。
球団別のノーヒットノーランは?
もう現れない記録ではないかと思われたが、2006年に3度目がやっと記録される。それも今回とまったく同じカードで同じ球場(当時は福岡ヤフードーム)だった。
日本ハムの先発はルーキーの八木。この試合がプロ入り3度目の登板。八木は9回まで4四球を与えたが1本もヒットを打たれなかった。しかし味方打線も先発の
斉藤和巳らに抑えられゼロ行進。0対0のまま延長戦に突入し八木は続投。延長10回も振り逃げでランナーを出すもののノーヒットに抑えた。ここまでの球数は150球。11回は武田久につないだ。
最終回の延長12回、日本ハムはルーキーの
川島慶三(現・ソフトバンク)の内野ゴロの間に虎の子の1点を取り、ストッパーのマイケルが2四球を出しながらもノーヒットでしのぎきり、65年ぶりの継投ノーヒットノーランが達成された。今回は出場はなかったが、ソフトバンクの
松田宣浩は15年前ルーキーとして三塁でスタメン出場。川島もベンチ入りしていて、両試合を知るユニフォーム組となった。
ソフトバンクはこれでチームとしては3度目のノーヒットノーランになる。1リーグ時代の南海時代の1943年5月23日に
別所昭(のちに毅彦)が
大和戦で達成してから74年間(73シーズン)ノーヒッターは現れず、名捕手・
野村克也も1度も立ち合えなかった。2019年9月6日に
千賀滉大がロッテ戦でマークして、ようやく2人目のノーヒッターが誕生した。
レギュラーシーズンの球団別のノーヒットノーランは以下のとおり。
球 団 達成 相手
巨 人 16(1) 8
中 日 12 12(2)
阪 神 9 11
オリックス 9(1) 6
西 武 9 5
ヤクルト 9 2
広 島 6 9
日本ハム 5(1) 4(1)
DeNA 3 7
ソフトバンク 2(1) 7(2)
ロ ッ テ 2 3
楽 天 0 2
消滅球団 11(1) 17
※達成は個人、カッコは継投 球団創設17年目の楽天はまだ達成者はいないが、セ・リーグではDeNAは大洋時代の1970年6月9日の
鬼頭洋がヤクルト戦、パ・リーグでもロッテが1973年10月10日の
八木沢荘六の完全試合以来、達成者がいない。ともに昭和時代の記録で平成年代は1度も達成することができなかった。ソフトバンク同様、令和で達成できるか注目したい。
文=永山智浩 写真=BBM