本塁打王の江藤、最多安打の菊池
ゾロ目の背番号は物語が多い。「11」は古くから投手の筆頭格というべき存在で、
阪神ではV9
巨人に牙をむいたエースの
村山実が永久欠番とした。その阪神と
西武の2チームで「22」ひと筋を貫いた
田淵幸一は紹介したばかりだが、この「22」には捕手のナンバーであるのと同時に、1990年代からはクローザーの象徴というイメージも築かれた。横浜(現在の
DeNA)の“大魔神”
佐々木主浩を皮切りに、現在は監督としても着けている
高津臣吾、阪神で2020年を最後に引退したばかりの
藤川球児ら、そうそうたる顔ぶれが並ぶ。
少しスキップして、「44」は忌み数とされる「4」が並ぶため助っ人が着けるケースが多く、1980年代に阪急(現在の
オリックス)の
ブーマー、続いて阪神のバースが2度、三冠王に輝いて強烈なインパクトを残した一方で、大洋(現在のDeNA)の
加藤博一や巨人の
緒方耕一ら韋駄天もいた。さらに「55」は巨人の
松井秀喜から強打者のナンバーに。松井のイメージから“~ゴジラ”の異名を取る左打者が多いのも特徴だろう。一転、巨人の
長嶋茂雄や広島の
衣笠祥雄が永久欠番として、打線の主軸という印象がある「3」が並んだ「33」には、他のゾロ目のような普遍性のある物語はないといえるのかもしれない。そんな「33」で、屈指の物語を紡いでいるのが広島だ。
ドラフト2位で2012年に広島へ入団、現在に至るまで「33」を背負い続けている菊池涼介。その二塁守備は過去の名手たちにも負けていない。2年目の13年からレギュラーとなり、そこから20年までゴールデン・グラブを連続受賞。14年にはシーズン最多の535補殺、20年には守備率1.000という驚異的な数字を残した。打っても16年には181安打で最多安打に輝き、広島25年ぶりのリーグ優勝に貢献。この21年で「33」も10年目、広島の歴代で最長に並び、「33」に堅守の印象を築いた。
菊池と同じ10年間、広島の「33」を背負ったのは長距離砲の江藤智。1989年に入団したときはヒットメーカーのイメージが定着する前の「51」を着けたが、2年目の90年に「33」へと変更して一軍デビュー、翌91年には捕手から内野手に転向して、初めて規定打席に到達した93年には34本塁打で本塁打王に輝いた。95年には自己最多の39本塁打、106打点で本塁打王、打点王の打撃2冠。低迷期の主砲としてチームを支えた。「33」を自らのトレードマークとした江藤はFAで移籍した巨人でも「33」を背負ったが、これは長嶋監督の背番号を譲られたものだ。
唯一の新人王は“バタボール”の右腕
タイプもポジションも異なるが、江藤も菊池も同じ内野手。ただ、「33」は内野手の系譜というわけではなく、江藤の後もボール、アメリカ独立リーグから復帰したロペスと助っ人がリレー、2003年から8年間は外野手の
鞘師智也、11年は西武から巨人を経て移籍してきたリリーバーの
豊田清が着けた。江藤の前任も右腕で、独特の変化を見せる“バタボール”を駆使した右腕の川端順。江藤と同じく2年目に背番号を変更、「13」から85年に「33」となって一軍に定着すると、11勝7セーブの活躍で新人王に。川端が90年に「17」へ転じたことで江藤が、豊田が1年で引退したことで菊池が、それぞれ「33」を継承することになる。
川端の前は近鉄から来た右腕の
福井保夫が1年だけ着けて引退。その前任が内野手の
長内孝だ。サウスポーでポジションが一塁に限られた長内だが、菊池と同様に1年目の76年から「33」を背負い、レギュラー定着は8年目の83年。そのオフに「9」へと“出世”して、89年には開幕戦で四番打者を務めている。長内と鞘師が8年間で3位タイ。それ以前で5年を超えたのは右腕の中村光也(光哉)のみで、1年目の63年から「33」を背負い、69年オフに「15」へと転じたが、通算9試合の登板にとどまっている。
来たる2022年も菊池の背番号に変更がなければ、広島の「33」としては期間で菊池が江藤を超えるが、「33」としては江藤は西武で引退する09年まで20年間、背負い続けている。とはいえ、「33」は菊池にも象徴といえる背番号。他のゾロ目に負けない物語は現在進行形だ。
【広島】主な背番号33の選手
長内孝(1976~83)
川端順(1985~89)
江藤智(1990~99)
鞘師智也(2003~10)
菊池涼介(2012~)
文=犬企画マンホール 写真=BBM