広島は11月16日、1975年途中から85年まで監督を務めた古葉竹識氏が12日に死去したと発表した。85歳だった。75年の初優勝を機に、強豪チームへと変貌した広島。80年代にかけて「カープ黄金時代」を築き上げた名将が古葉氏だった。土台となったのは「やりたいことはやる」という妥協を許さぬ信念。小柄な体に満ちた赤い闘志で、3度の日本一にたどり着いた。 弱点をどう克服するか

広島・古葉監督
1950年の創設以来、Aクラスはわずか1度という“弱小チーム”の広島が大きく変わったのは、75年のことだった。74年に打撃コーチとして入団していたジョー・ルーツが、3年連続最下位のチームを引き継ぎ監督に就任。球団初の外国人指揮官はチームカラーを赤に変え、キャンプからの短期間で「勝ってファンに喜びを与えることが仕事だ」と、選手たちに徹底的にプロ意識を植え付けた。さらに同時に球団に対して選手たちの待遇改善を次々と要望。大型トレードも断行し、戦術面、意識面でチームをドラスティックに変えた。
しかし、開幕からわずか15試合、審判に対する抗議で退場処分を受けたのを機に、突如辞任。そして、
野崎泰一代行を経て、古葉竹識が監督に就いたのは5月4日のことだった。「赤ヘル軍団」の土台を築いたのがルーツであれば、それを成熟させ、黄金期を作り上げたのが古葉だ。
「言いたいことを言って、やりたいことをやって、悔いのないようにしよう」
熊本・濟々黌高から専大に進学するも、秋には中退して、
濃人渉(のち
中日、
ロッテ監督)が率いる大分・日鉄二瀬へ。濃人の「カープならレギュラーになれる」との言葉で、58年に広島に入団した。阪急の名将となる
上田利治とは、プロ入りは1年先だが同学年である。俊足の遊撃手として63年には
巨人・
長嶋茂雄と激しい首位打者争いを演じ、64、68年には2度の盗塁王に輝いた。
70年に南海へトレードされ、72年から
野村克也兼任監督の下でコーチに。73年にパ・リーグを制した経験から「相手チームと比較して、自分たちの弱点をどう克服していくか。何が足りないかを考え、改善していく」という、チーム作りにおいての基本方針を学んだという。
古巣復帰はその直後、専大時代から世話になった
森永勝也が広島の監督となることが決まり、「一緒にやろう」と誘われたのがきっかけだ。しかし、森永は74年、最下位の責任を取り早くも辞任。そのとき、森永が口にした「言いたいことを言って、やりたいことをやって、それでダメだったら悔いが残らなかったんだがなあ」という言葉が、古葉の「やりたいことをやる」という、指揮官としての信念を決定付けることになった。
猛練習がカープの代名詞に
75年、カープを初Vに導いた古葉だが、自身の本格的なチーム作りは翌76年からとなる。「幸いなことに
山本浩二、
衣笠祥雄が中心選手として育っていたので、この2人を中心に、どうチーム作りをするかという考え方ができた」。そこからは、上田阪急同様に、キャンプでの猛練習がカープの代名詞に。スコアラーを派遣して他球団と徹底的に戦力を比較し、先発・中継ぎ・抑え、打線も一番から八番まで、他に劣ることのない妥協を許さぬチームを作ろうというのだから、厳しくなるのは当然のことだ。
そうした中で
高橋慶彦、
山崎隆造、
正田耕三らスイッチヒッターを生み出し、
木下富雄ら先発から守備固めまでこなせるユーティリティープレーヤーを育て、山本浩・衣笠を軸とした野手陣を養成。投手陣は「野手は作れても、投手はなかなかそうはいかない。スカウトと話をしながら、目先ではなくその先も考えた補強した」。
北別府学、
津田恒美(のち恒実)、テスト入団の
大野豊……。将来を見据えたスカウティングと、
江夏豊ら経験豊富なベテラン補強とのバランスで、80年代にかけての「投手王国」は築かれたのだ。

79、80年には日本シリーズ連覇を果たした
投手力を中心とした堅い守り、そして主砲の山本浩や衣笠まで2ケタ盗塁を記録する緻密な機動力野球を武器に、79、80年には
西本幸雄監督率いる近鉄を破り、2年連続日本一。84年には75年に1勝もできなかった阪急に4勝3敗と雪辱し、3度目の日本一に輝いた。古葉は85年限りで退任したが、翌86年も
阿南準郎監督の下で広島は5度目のリーグ制覇。70年代後半から80年代にかけて、古葉が成熟させた赤ヘル軍団の「一丸野球」はプロ野球界を席巻するのである。
1球の行方も見逃さず
「耐えて勝つ」という言葉を座右の銘とした古葉は、選手たちだけではなく、自身にも厳しかった。プロで2000試合近く戦いながら、1球たりともボールの行方を見逃すことはなかったという自負がある。「二遊間の選手は捕手のサインに応じて動いたり、ベースカバー、バックアップ、カットマン、さらには投手へのアドバイスなど、さまざまな役割がある。その大切さを教えてくれた、濃人さんの指導が基礎になった」。試合中、体が半分しか見えないほどベンチの隅に陣取る姿も古葉の代名詞だったが、これも「投手がどんな球を投げて、内外野がどんな動きをしたか、あの位置ならすべて見渡すことができる」からだった。
カープを強豪に育てた古葉だが、弱小の、苦難の時代を支えたOBたちの功績を忘れることはなかった。「選手たちを指導してほしい」と、森永や初代エースの
長谷川良平らをグラウンドに招き、アドバイスをもらい、優勝旅行にも招待した。
「森永さんが亡くなったとき、奥様から『あの優勝旅行は一番の思い出でした』という言葉をいただいたときは、僕も泣かずにはいられませんでした」
2008年からはアマチュアの東京国際大監督も務めた古葉。広島時代は時に選手に鉄拳を振るうこともあった厳しい指揮官だったが、「いまではなでる程度」と笑っていた。それでも、広島に行けば必ず旧市民球場跡に立ち寄り、周囲を回りながら、苦しい時代の記憶、そして黄金時代に成し遂げた栄光に思いをはせていたという。
写真=BBM