ライオンズ初優勝の監督に始まる「60」

1年目の02年から「60」を背負う西武・中村
近年はブレークしても背番号を小さくせず、大きい背番号のまま活躍を続ける選手が増えてきたとはいえ、西武のように「60」「61」と投打の主力が並ぶケースは、まだまだ珍しい。「60」は
中村剛也、「61」は
平良海馬。長く主砲としてチームに貢献している中村と、この2021年に開幕から39試合連続無失点の快挙を成し遂げた若き平良海馬と好対照の2人が並んでいるのは異例のことだ。
中村の「60」は、もともと長距離砲の印象があるナンバーで、南海(現在の
ソフトバンク)の
門田博光が背番号を本塁打の目標にして「27」、「44」から数字を大きくしていったケースが草分け。門田の後にはFAで
中日から
巨人へ移籍した
落合博満、その中日に
阪神から復帰した
大豊泰昭らが着けた。ちなみに、ソフトバンクの系譜には門田の前に
野村克也もいるが、「60」では本塁打ゼロ。もともと監督ナンバーの2代目、あるいは3代目といえる背番号で、西武も初代は監督、それもライオンズを初のリーグ優勝に導き、黄金時代を築いた名将だ。
西武は2リーグ制となった1950年にプロ野球へ参加した西鉄が起源。「60」の初登場は54年で、これはライオンズ初のVイヤーでもある。西鉄クリッパースと西日本パイレーツが合併して西鉄ライオンズとなった51年に監督として「50」を着け、54年に「60」の初代となったのが
三原脩監督だ。この54年は日本一こそ逃したものの、56年からは3年連続リーグ優勝、そして巨人を破っての日本一。三原監督は59年オフに退任するまで「60」を背負い、翌60年も「60」で大洋(現在の
DeNA)を初のリーグ優勝、日本一に導いている。
西鉄の「60」は“鬼軍曹”
重松通雄が継承。その後は70年の1年だけ着けた右腕の
荻野一雄から選手も着けるように。西武と大洋の2チームで「60」を背負った
白幡勝弘(隆宗)が西武となって3代目だが、81年の1年だけで「40」に変更、登録も外野手に。初めて「60」が一軍のグラウンドに立ったのは、87年に継承、92年に3試合の登板を果たした右腕の
山本勝則だった。

西武の背番号「60」で活躍した初めての選手と言えるマルティネス
ブレークは97年。後継者となったのは“マルちゃん”の愛称で親しまれた助っ人のマルティネスだ。だが、主砲としてリーグ連覇に貢献しながらも2年目の98年オフに解雇され、翌99年は同じく助っ人ながら右腕のマニュエルが継承も1試合のみの登板で退団、1年の欠番を挟んで2001年には近鉄で遊撃や外野を守った
村上嵩幸が西武へ移籍してきて後継者となるも1年で引退。これを継承したのが02年に入団した中村だ。
捕手から指導者に転じた男たちの「61」

西武では相馬、秋元[写真]と新人捕手が「61」をリレー
プロ1年目から「60」を背負った中村だが、門田のように背番号を本塁打の目標としたわけではなく「僕のような大きな背中に似合う番号ですよね」と笑う。それでも21年シーズンを終えた時点で6度の本塁打王に輝き、通算442本塁打。西武の「60」を背負った期間でもダントツのトップになるが、プロ野球の「60」で放った本塁打の数でも群を抜く。
一方の「61」は、西鉄で62年に右腕の
下川満康が初代となり、翌63年に一軍デビューも勝ち星なし。チームが西武となり、82年に
相馬勝也、87年に
秋元宏作と新人の捕手がリレーしたことで捕手の系譜に。秋元の一軍デビューは大洋へ移籍してからで、“大魔神”
佐々木主浩から厚く信頼されたことでも知られるが、相馬も秋本も西武で指導者としても活躍している。

現在、西武で「61」を着ける平良。剛腕リリーバーとしてチームに欠かせない存在だ
97年に後継者となった内野手の
古屋剛からは系譜に一貫性がなく、2008年には
ヤクルトから来た左腕の
石井一久が着けたが、1年で自身のトレードマークでもある「16」に。戦力外となりヤクルトへ移籍した外野手の
田代将太郎から18年に継承したのが平良になるが、西武の場合は「61」の物語というよりも、「60」に続く背番号の物語と考えるべきか。長いプロ野球の歴史で、まったく新しい物語として。
【西武】主な背番号60の選手
三原脩(監督。1954~)
山本勝則(1987~94)
マルティネス(1997~98)
村上嵩幸(2001)
中村剛也(2002~)
【西武】主な背番号61の選手
相馬勝也(1982~86)
秋元宏作(1987~90)
古屋剛(1997~2001)
田代将太郎(2012~17)
平良海馬(2018~)
文=犬企画マンホール 写真=BBM