70年代は大洋、90年代はロッテで

グリーンとオレンジの2色で彩られたユニフォームに身を包む山下
ユニフォームのデザインほど好みが分かれるものはないだろう。いや、それしかないのかもしれない。ファッションには詳しくないが、好みはあれど、多くのユニフォームはデザインの調和が整っていて、シックにまとまっているように見える。一方で、抜群のインパクトで球史に爪痕を残したデザインのユニフォームも少なからず存在した。これも意見の差はあろうが、その筆頭格は大洋(現在の
DeNA)のグリーンとオレンジの2色で彩られたユニフォームではないだろうか。
採用の契機は
山下大輔の入団だったという。1973年の秋、ドラフトの“イの一番”で入団した山下。実家が実業家ということもあり、当時は“プリンス”と表現されることも多かった。そんな山下の出身地は静岡県。お茶とミカンが名産で、その色をユニフォームにあしらったものだという。ちなみに、当時の大洋は本拠地を川崎に置いていて、川崎も通っている東海道線の配色が由来という説もあるが、この東海道線の配色も同じ、お茶とミカンだというから、つまるとこと一緒だ。
だが、1年目のキャンプには卒業試験のため合流が遅れ、参加した途端に発熱、ナインに感染させないようにとキャンプ地に近い実家で療養していたら“虚弱児”と批判を浴びることに。ここ数年なら大いに歓迎されるような“自主隔離”と“自宅待機”なのだが、インフルエンザくらいなら皆勤賞の獲得が優先されるような時代、スポーツ選手にハングリー精神が強く求められていた。ユニフォームまで変わってしまうほど期待の存在だった“プリンス”山下は、その対極にいるような存在に見えたのかもしれない。
山下は、のちに「私の現役生活は、それとの戦いでした」と振り返っている。大洋の斬新なユニフォームは、山下の象徴に見えて、山下ならではの「戦い」の“戦闘服”でもあったのかもしれない。ただ、このユニフォームを見られたのは4年間のみ。大洋が77年を最後に川崎から現在の横浜へ移転したことで、デザインが一新されたためだ。ちなみに、大洋もいた川崎から千葉へ移転したことで異色のユニフォームとなったのが
ロッテだ。これについては次回。
文=犬企画マンホール 写真=BBM