フォークをアゴで止める秋元の一方で

若かりしころの谷繁
ドラフト1位で1990年に入団したときのチーム名は大洋だった。2年目からリリーバーとして適性を発揮、チームが横浜となってからも安定感は変わらず、98年には9回のマウンドに君臨して38年ぶりリーグ優勝、日本一の立役者となったのが“大魔神”
佐々木主浩だ。
巨人の
長嶋茂雄監督は「横浜との試合は8回までだ。9回には魔神(佐々木)がいる!」とナインに檄を飛ばしたという。98年の佐々木は防御率0.64、56イニングを投げて自責点4と鉄壁の数字。横浜との試合では9回に佐々木の登場を許した時点で敗戦が決まったようなものだったのだ。
ほとんどの打者がバットに当てることすらままならなかったのが佐々木の決め球であるフォークボール。140キロを超える高速フォークにカウントを取るための遅いフォーク、さらに左右へ曲がる2種類のフォークと、計4種類のフォークがあったというが、いずれも落ちる変化球であることには変わりない。リスクは捕逸だ。フォークの使い手は捕逸の少ない捕手を好むが、佐々木も同様だった。大洋には佐々木の1年前にドラフト1位で入団した捕手で前途有望な
谷繁元信がいたが、佐々木は「シゲはパスボールが怖い」と、谷繁とバッテリーを組みたがらなかった。佐々木とともに“リリーフ捕手”となったのは
秋元宏作。もともと内野手だったこともあり、まずミットでさばこうとするクセがあった谷繁と対照的に、フォークへ体ごと持っていき、時にはアゴで止めていたのが秋元だった。

98年の日本一時には“胴上げ捕手”となり、佐々木と抱き着いて喜びを表した谷繁
94年には129試合に出場した谷繁だったが、翌95年には秋元が自己最多の101試合に出場した一方で、93試合の出場にとどまると、あらためて必死に練習を積み、捕手としての技術を徹底的に磨いていく。繰り返したのはワンバウンドしたボールを体で止める練習だった。それまでバッテリーコーチだった
大矢明彦が監督に就任したこともあり、ふたたび司令塔の座に返り咲いた谷繁は、首脳陣だけでなく、最終的には佐々木からも全幅の信頼を得る。98年には自己最多を更新する134試合に出場。胴上げ投手となった佐々木とバッテリーを組んでいたのは谷繁だった。
文=犬企画マンホール 写真=BBM