登録名でも異彩?

97年、西武へ移籍して成績が伸びたデニー
ドラフト1位で1987年に大洋(現在の
DeNA)へ入団も、なかなか芽が出なかった。93年にチームは横浜となったが、自身は大きな飛躍のないまま、プロ10年間で通算2勝にとどまる。そして、オフにトレードを志願。プロ11年目を西武で迎えることになった右腕は心機一転、「デニー」として再スタートを切った。
この連載でも何度か登録名について取り上げてきたが、登録名の変更が多い選手でもあった。「
友利結」としてプロ入りも、ゼロ勝のまま95年には「デニー友利」に。長くなるので詳しい説明は避けるが、「デニー」も「友利」も苗字で、苗字と苗字が並ぶ異色の登録名だったことになる。
横浜でサイドスローに転向、まず「デニー友利」で2勝を挙げて、西武で「デニー」に。これも吉だったのかもしれない。課題は制球難だったが、現役時代は“ケンカ投法”で打者の内角を攻めまくった
東尾修監督から「それを武器にせえ」と言われたことで、思い切りのいい投球を取り戻す。チームメートの
潮崎哲也に教わったシンカーも武器となり、リリーバーとしてブレークした。移籍2年目の98年には7勝8セーブでリーグ連覇に貢献。日本シリーズでは古巣の横浜と対戦して、日本一には届かなかったものの、好投したデニーは「(横浜の)二軍の選手に伝えたい。あきらめちゃいけないんだ」という思いもあったという。

86年12月、大洋への新人入団会見にて[前列右がデニー]
横浜では芽が出なかったが、目立つ存在ではあった。身長191センチ、手足も長く、「モデルになればビバリーヒルズで暮らせる」とさえ言われたスタイル。この評価の真偽はさておき、体格のいいプロ野球選手の中でも異彩を放っていたのは事実だ。沖縄県の出身。父は米国人、母は宮古島の人だったという。両親の離婚により母子家庭で育ったため、西武でブレークしてからは西武ドームに“デニーズ・シート”を設けて母子家庭の少年少女を招待している。
2003年には横浜へ復帰して2年間、リリーフとして貢献。米マイナーを経て、
中日でも2年間プレーして現役を引退した。ちなみに、横浜ラストイヤーの04年と中日1年目の06年の登録名は「デニー友利」だった。
文=犬企画マンホール 写真=BBM