プロ27年間で403本塁打

楽天で野球人生が再び花開いた山崎
野村克也氏は平成で監督最多の通算1053勝をマークし、球界を代表する名将として知られる。現役時代にドラフト外で南海に入団し、名捕手としてNPB史上2位の657本塁打をマークした生き様が、指導者としての人生に、色濃く反映されていた。くすぶっていた他球団の選手を再生させる能力に長け、その手腕は「野村再生工場」と呼ばれた。南海の監督時代は
江本孟紀、
山内新一、
ヤクルトの監督時代は
小早川毅彦、
田畑一也、
阪神では
遠山奬志、プロの監督4球団目となった楽天で鉄平と選手たちの眠っていた素質を引き出した。年齢は関係なく、「頭脳」を使うことで輝きを取り戻す。「野村再生工場の最高傑作」と呼ばれるのが、プロ27年間で通算403本塁打をマークした和製大砲・
山崎武司だ。
山崎は名門・愛工大名電高で通算56本塁打と「強打の捕手」として評価を高め、地元球団の
中日にドラフト2位で入団。強打を生かして90年から外野手に転向し、96年に同僚の
大豊泰昭、
松井秀喜(
巨人)との熾烈な争いを制し、39本塁打でタイトルを獲得した。その後も主軸として活躍するが、順風満帆だったわけではない。2002年は26試合出場に終わり、
オリックスにトレード移籍。だが、当時の首脳陣との人間関係で悩み結果が出せない。04年限りで戦力外通告を受けると、引退も頭をよぎった。

中日では96年に本塁打王を獲得した
このとき36歳。だが、楽天に移籍することで野球人生が大きく変わる。山崎は週刊ベースボールのインタビューでこう振り返っている。
「田尾(
田尾安志)監督にバッティングをすべてバラしてもらい、『根本的に直せ』と言われたこと。そして、ドラゴンズでホームラン王を取れたとか、過去の栄光をすべて捨てられたことですね。プライドを捨てて一からやり直して、これでダメなら最後。田尾監督から言われたのは『しっかりためて、ボールを引きつけて打て』、簡単に言えばそういうことです。で、やっているうちに、自分の頭の中でイメージができ始めたんです。そこからですね。野村(克也)監督からは配球面、打撃についての考え方を教わって、そのおかげで07年にもう一度、本塁打王(過去最高の43本塁打)を取ることができました」

楽天で07年に43本塁打でタイトル奪取
野村監督から教わった「配球を読む打撃スタイル」の奥深さに魅了された。39歳の07年に43本塁打、108打点で2冠王を獲得。プロ21年目での40本塁打、100打点での本塁打王、打点王は史上初の快挙だった。41歳の09年も39本塁打、107打点と楽天に在籍した7年間で191本塁打を積み上げた。
「野村監督には足を向けて寝れないし、一生、師匠でもありオヤジでもあります。野村監督のおかげでもう一度息を吹き返すことができましたし、何よりも人としての温かさを感じました。不調のときに『焦るな』とか、ボソッとかけてくれる言葉が特にありがたかったです」
不器用な生き方だったが
11年限りで退団すると、古巣の中日に復帰。44歳まで野球人生をまっとうし、13年限りで現役引退した。通算成績2249試合出場、打率.257、403本塁打、1205打点。
「自分が納得できないことは主張する。それで干されたり、トレードにも出されましたけど……。これだけワガママで
ヤンチャで、27年間続けられたのは僕ぐらいかな。これが唯一の自慢(笑)。でも、自分に目をかけてくれた方は絶対に裏切りません。嫌なヤツにはすぐそっぽ向いちゃうけど。義理と人情だけはしっかり持っていたつもりです」と振り返る。
不器用な生き方かもしれない。だが、出会いを大事にしたから楽天で輝いた。
「オリックスでやめとったらホームランも200本塁打ちょっとだったのが、楽天でもう200本塁打打てましたし。ただ、長くやっていて2000安打を打てなかったのは恥ずかしいんですけど、セで半分、パで半分打てたのは満足です」
人情味あふれる主砲は愛された。現在は野球評論家として活動する。いつか、グラウンドに戻ってきてほしい――。待ち望んでいる野球ファンは多いだろう。
写真=BBM