4年前に創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。バックナンバーを抜粋し、紹介する連載を時々掲載しています。 江夏の先発志願を受けて
今回は『1973年9月24日号』。定価は100円。
どのチームも決め手を欠き、8月に入っても大混戦が続いていたセ・リーグ。その中で勝ったり負けたりを繰り返しつつも、8月30日の
中日戦(甲子園)では、
江夏豊の延長ノーヒットノーラン&サヨナラ弾で勝利し、中日を抜いて首位に立った。
迎えた31日からの巨人3連戦(後楽園)。巨人は3位だが、大混戦の中、初戦に勝ち、中日が負けたら首位に立つ。
阪神にしたら3連勝で首位固めをしたいところだった。
ただ、登板間隔を考えると、8月5勝でチームの首位浮上のキーマンとなった江夏を使えず、2連敗。次に誰を、と
金田正泰監督が悩んでいるとき、
柿本実コーチが「監督、江夏が行きたいと言っています」と言ってきた。
ここで金田監督が「う~ん」とうなる。延長11回のあと、中2日先発。しかも全盛期の江夏ではない。肩と心臓に持病を持つ江夏だ。
終盤の過密日程は思えば、ここは無理をさせるべきではないとも思った。
江夏は言う。「俺が行けば負けるかもしれん。が、俺が行かずに負ければ、ファンが納得せんやろし、また何を言われるか分からんやろ。だから俺から頼み込んだんや」
結局、金田監督は「江夏の意気込みを買った」と先発させたが、途中KO。試合も負けた。やるだけやった、と淡々として江夏に対し、
「どうせダメなら江夏を残しておくべきだった。私が彼の申し出にストップをかけなければいけなかったか」と金田監督はつぶやいた。
新聞記者は「金田監督は江夏の心情を察したというより、江夏がワシは信用されてないとヘソを曲げることを恐れたのかもしれない」と語る。
以前、金田監督をオジキと呼び、慕った江夏だが、この年は隙間風が吹いていた。理由の1つは、この年前半、好調の
上田二朗と江夏との二本柱、しかも少しだが、上田を中心にしたこと。これで江夏のプライドが少なからず傷ついた。
しかし夏場に来て上田の勢いが落ち、江夏の比重が増す。金田監督も「後半戦は江夏に頼るしかない」と断言していた。金田監督にしてみたら、これ以上、江夏を刺激したくない、ということだったのだろう。
当時の阪神はグラウンド以外でも戦いがあった。前年退団した
村山実派、金田派の確執だ。選手、コーチ、さらにはマスコミも二分されていた。
村山派とみられた
藤井栄治の不可解な二軍落ちも、村山サイドの記者が、「あれは村山派を意識した采配」と言えば、金田派は「金田監督は村山派の監督、選手の整理はしていない。藤井の二軍もそれとはまったく関係ない」となる。
その後も阪神の状態は上がらず、9月7日には一気に5位。ただし、首位巨人とは2.5ゲーム差だった。
では、また。
<次回に続く>
写真=BBM