「コイツのおかげで優勝できたんや」

星野監督の下、中日で活躍した中村
今の時代なら許されないだろう。昔はプロ野球の世界で「鉄拳制裁」が珍しくなかった。「闘将」として知られた
星野仙一監督が40代と血気盛んな時代、正捕手として中日を支えた選手が
中村武志だ。
京都市内で生まれ育ち、花園高での3年間は新聞配達を続けた。バットやミットなど野球道具もそのときに受け取った給料から買った。努力し続けている姿を神様は見ている。全国的な知名度はなかったが高校生離れした鉄砲肩が魅力で、84年のドラフトで
竹田光訓(明大)の外れ1位で中日から指名される。
当時中日の正捕手は
中尾孝義だったが肩に不安を抱えていたため、87年から就任した星野監督が後継者として中村に目を掛けた。その練習量は常軌を逸していた。試合前も猛練習で泥だらけになり、試合中に失点を重ねて鉄拳制裁を受けることが日常茶飯事だった。審判や相手球団の選手に同情されるほどだったが、強肩強打の選手として花を開かせる。シーズン途中に正捕手の座を勝ち取った88年にリーグトップの盗塁阻止率.448をマークすると、89年も2年連続リーグトップの盗塁阻止率.516。剛速球のような送球は内野手の手を腫れさせるほどだった。95年も盗塁阻止率.519と強肩がうなる。捕手として規定出場し、盗塁阻止率5割以上を2度記録した捕手は中村を含めて4人しかいない。
パンチ力のある打撃も魅力だった。91年に自己最多の20本塁打を記録。当時の中日打線は
落合博満、
宇野勝、
大豊泰昭と強打者が中軸に並び、一発が怖い中村が下位打線に控えるため、破壊力抜群だった。印象深いのが同年7月19日の
巨人戦(ナゴヤ)だ。7点差を追いかける8回に4点差に追い上げると、代打で途中出場した中村が同点満塁アーチ。さらに延長10回にサヨナラアーチを放ち、鮮やかな逆転勝利を飾った。
星野監督とは強い絆で結ばれていた。88年に星野政権で初のリーグ優勝に貢献した際は優勝旅行で「一緒に写真を撮ろう」と声を掛けられた。カメラマンに「コイツのおかげで優勝できたんや」と声を弾ませたという。99年に11年ぶりのリーグ優勝を飾ったときも歓喜を共にした。星野監督は「あれだけ練習させた選手はいなかった」と中村について振り返っている。
星野監督が2次政権の2001年限りでチームを去ると、
山田久志監督が就任して
谷繁元信が横浜(現
DeNA)からFA移籍したため、中村は移籍を志願して横浜に金銭トレードされる。その後は
楽天に移籍して05年限りで現役引退した。
温厚で真面目な性格

最後は楽天でプレーした
中村は選手からの人望が厚いことで有名だった。痛打を浴びても投手陣をかばい、「自分が悪い」と首脳陣の前で盾になった。21年間現役でプレーできた理由は強肩強打のプレースタイルだけではない。温厚で真面目な性格で裏表がない。投手陣と強固な信頼関係を築いたからこそ、扇の要として不可欠な存在になった。
現役引退後は横浜、中日、
ロッテ、韓国・起亜でバッテリーコーチを歴任。捕手の育成手腕に定評がある。昨年限りで中日のコーチを退団後は野球評論家として活動。プロ野球OBのYouTubeチャンネルにも出演し、星野監督との当時の思い出を笑顔で振り返り感謝の言葉を口にしている。
写真=BBM