歴史の証言者?

西武時代の清原。ヘルメットの大きさは規格外だった
2005年に
オリックスの
山口和男から頭部に死球を受けた
巨人の
清原和博。ヘルメットに守られて大事には至らなかったが、このとき巨人の黒いヘルメットは死球が当たった部分の塗装が剥げた。そこから顔を出したのは青い下地の色。青いといっても濃いものから薄いものまで多様だが、それは明らかに、いわゆる“ライオンズ・ブルー”だった。1979年に生まれ変わった西武で採用され、80年代に始まる黄金時代を象徴する、あの色だ。西武球場の美しい人工芝のグリーンにも映えていた“ライオンズ・ブルー”。その鮮やかなコントラストは、“球界の盟主”の座を巨人から奪い、プロ野球に新たな時代をもたらすことを予感させたものだった。
2005年といえば、清原はプロ20年目の大ベテランになっていたが、このときのヘルメットは清原よりも“歴戦”の猛者だった。清原はドラフト1位で86年に西武でプロ入り。このとき、清原の頭に合うサイズのヘルメットがなかったという。規格外の打棒で甲子園を沸かせ、プロでも変わらず1年目から規格外の活躍を見せた清原は、頭のサイズも規格外だった。とはいえ、ヘルメットがなければ試合に出ることもままならない。そこで譲り受けたのが、ある先輩のヘルメット。それを使っていたのが
野村克也だった。

西武時代の野村。79、80年と西武でプレーした[左は巨人・王貞治]
1990年代からの監督としての印象も強い野村だが、その現役時代といえば多くのファンが南海(現在の
ソフトバンク)の正捕手、そして四番打者としての活躍を思い浮かべるはずだ。ただ、野村は77年に南海を退団すると、
ロッテを経て西武“元年”の79年に移籍して、2年間プレーして引退している。このとき野村が使っていたヘルメットが清原のサイズにピッタリ。清原は96年オフにFAで巨人へ移籍したが、このヘルメットに上塗りして使っていたのだという。
ちなみに、野村にも同様のエピソードがあり、やはり頭のサイズに合うものがなく、日米野球で来日したメジャーの選手から譲り受けて使っていたのだとか。清原がプロ20年目なら、ヘルメットは倍の40年を超える時間を刻んできたことになる。日米を股にかけた、まさに“歴史の証言者”だ。
文=犬企画マンホール 写真=BBM