相手は開幕4連勝の斎藤雅樹

97年の開幕戦で3打席連続本塁打を放った小早川
1990年に就任した
ヤクルトの
野村克也監督。最初の開幕戦は
巨人の
篠塚利夫が放った右翼ポール際への打球が本塁打と判定される“疑惑の本塁打”事件もあって敗れたが、3年目の92年にリーグ優勝、翌93年には日本一を果たし、黄金時代を築いた。データを重視する“ID野球”は象徴的だが、南海(現在の
ソフトバンク)の兼任監督だった時代からの“再生工場”も健在。この双方が集大成を迎えたのは、97年の開幕戦ではないだろうか。
対するは90年と同じ巨人。その開幕投手も、同じく
斎藤雅樹だった。斎藤は前年まで4年連続で開幕投手を務めて4連勝、3連続完封。ヤクルト打線も96年には6連敗と完璧に抑え込まれていた。さらに当時の巨人は補強に熱心で、
西武からFAの
清原和博を迎え、ルイスやヒルマンら助っ人も獲得したばかり。“30億円補強”ともいわれ、その清原が開幕戦から四番に座った一方で、ヤクルトの五番には
小早川毅彦が入っていた。
1年目から
広島のリーグ優勝、日本一に貢献して新人王に輝き、“赤ヘルの若大将”といわれた小早川だったが、94年からは出場機会を減らして、96年オフには戦力外に。“ID野球”に興味があった小早川だったが、野村監督も「お前は人生の門出に必ずいいことがある」と“相思相愛”。確かに、法大1年生で四番打者、広島1年目に新人王という“データ”のある小早川だったが、ヤクルトでも“データ”どおりとなる。
斎藤に苦手意識がなかったこともあり、小早川は第1打席、それも初球を先制のソロ本塁打に。これで斎藤の開幕戦連続無失点を28イニングでストップさせると、続けて第2打席では同点ソロ、第3打席でもリードを2点差に広げるソロ。清原が2打席連続三振でスタートしたのとは対照的な3打席連続本塁打だった。さらには、投げても
中日から来た
野中徹博、ダイエーから来た
廣田浩章ら、自由契約となった男たちが救援で好投。この開幕戦に勝ったヤクルトはリーグ優勝、日本一を飾ったが、補強としては“ゼロ円”の男たちが“30億円”の巨人に勝った痛快さ。多彩な魅力がある“ノムラ野球”だが、これこそが醍醐味だった気がする。
文=犬企画マンホール 写真=BBM