月刊誌『ベースボールマガジン』で連載している伊原春樹氏の球界回顧録。2021年10月号では阪神時代の野村克也監督に関してつづってもらった。 「森と東尾のときと同じことを頼む」

2000年、阪神安芸キャンプでの伊原氏[左]と野村監督
1999年、守備走塁コーチを務めていた
西武は4ゲーム差の2位でダイエーに初優勝を飾らせてしまった。
東尾修監督の下、97、98年と連覇を果たしていたがV逸。
松坂大輔が高卒1年目で16勝を挙げて最多勝を獲得する活躍を見せたが、貧打に泣いて競り負けてしまった。
私が3連覇を果たせなかった後悔の念を抱いたのは当然だ。来季のリベンジを胸に誓っていたが、シーズン終了後、一、二軍合計19人のコーチ陣が球団事務所に集まったとき、私は来季の契約を結ばないことを通告された。東尾監督より年長の5人がチームを離れ、コーチ14人の小所帯に。「リストラ」とマスコミでは報じられたが、私は「優勝できなかったからしようがない」と表面上は平静を装った。しかし、それまで19年、西武でコーチを務め、そのうち私は10度のリーグ優勝、6度の日本一に一軍コーチとして立ち会っていたことに誇りがあっただけに悔しさがないはずはない。以来、自宅にこもり、その年の戦いを振り返り、資料をまとめることに没頭していた。
そんなとき、阪神タイガースから連絡が来たのだ。99年、野村克也監督1年目の阪神は最下位に終わっていた。最下位脱出に懸ける2年目を迎える野村監督に会ってほしいというのだ。私は野村監督がよく利用する都内のホテルで対面した。
「伊原、お前は森(祗晶)や東尾のときにコーチとしてどういった仕事をしていたんだ?」
「守備、走塁の作戦面、特にスチール、ダブルスチールについては全てを任されていました」
「そうか、俺もそうしよう。森と東尾とやっていたときと同じことを頼む」
予想どおり、コーチ就任の要請だった。その後、野球談議を交わし、後日、正式契約する運びとなった。あらためて阪神の球団社長と会って契約交渉を行った際、野手総合コーチとして2年契約の提示。しかし、1点だけ私に不安があった。それは「野村監督と合わないのではないか」ということだ。野村監督は現役最晩年、79、80年と西武に在籍。私とチームメートだったわけだ。そのとき、野村監督の言動に違和感を覚えていたこともあった。
「2年契約はありがたいお話ですが、私の仕事ぶりを1年見ていただき、契約を考えてみていただきますでしょうか」と言うと、「2年契約は普通、喜んでいただけるのですが1年契約ですか?」と球団社長は驚いた。私は本音を隠して「1年でお願いします」と答えた。
あこがれだった選手・野村と同僚に

79年、80年は西武でプレーした野村
そもそも私は小学生のころ南海ファンだった。
広島の北西部の町で生まれ育った私はよく近所のお寺で三角ベースを楽しんでいた。そこに京都出身のお坊さんがいて、南海ファンだった。そのお坊さんはお供え物を子どもたちにおすそ分けしてくれたのだが、そのとき「南海ファンになってくれたらあげるぞ」と言っていたのだ。子どもは単純なもので、私も南海ファンに。そのときの南海は
杉浦忠さん、野村さんのバッテリーを中心に黄金期を迎え、何度も日本シリーズに出場。私は「四番・野村」にあこがれを抱き、「サインをください」というハガキを球団に送ったほどだ。
それから時が過ぎ79年、ライオンズが九州・福岡から埼玉・所沢に移転して西武ライオンズとなり、野村監督も
ロッテから移籍してきた。控え選手だった私は2年間、ベンチでは常に野村監督の隣に座り、そのボヤキを耳に入れ続けた。
「伊原、このさい配はどう思うか。これはおかしいな。これじゃあ勝てるわけない」とブツブツ。当時は
根本陸夫監督で、かつては南海で兼任監督を務めていた野村さんの目には物足りなかったのだろう。確かに的を射ていたことは多かったが、少し言い過ぎではないかと思うこともあった。
「伊原は勝手にサインを出しよる」
00年の阪神は4月に9連勝を果たすなど好スタートを切った。そのころ、
巨人の
原辰徳ヘッドコーチと球場で会った際、「今年はよく走りますねえ。あんなところで走られては嫌ですよ」と言葉をかけられた。私が任されていた走塁面でも勝利に貢献できていたのは確かだろう。
それが5月19の横浜戦(横浜)、同点の8回、二死から
ハートキーが右前打で出塁。「相手投手は走者がいるときの初球はクイックで投げないことが圧倒的に多い。だから、初球は相手投手の足を見ながらスタートを切りなさい。大きく上がったらそのまま行って、クイックだったら戻れ」と私は通訳を伴い指示を出した。
そして初球。ハートキーは好スタートを切ったが、相手は珍しくクイック。それを見極めていれば十分戻れるはずだったが、ハートキーはそのまま二塁へ向かってタッチアウトに。攻撃が終わり、ベンチに戻ると野村監督から「あそこで走らせるバカがいるか」と叱責され、「すみません」と私は謝罪。事情を聴きに来た
松井優典ヘッドコーチには、その理由をひと通り話した。
翌日の試合前、野村監督はベンチで担当記者に囲まれると「伊原は勝手にサインを出しよる」とぼやいたそうだ。さらに練習後、野村監督に監督室に呼ばれ、「お前が盗塁のサインを出すのは功名心のためにやっているのか」と聞かれた。「そんなことはありません。チームの勝利のためにスキあらば塁を奪おうと考えているだけです」と反論したが、「今日から盗塁のサインはこっちから出す」と私の仕事の一つをはく奪された。
そのうちに阪神も低空飛行となり、例年どおりの調子に。再び巨人と対したとき、原ヘッドコーチに「最近、走らなくなりましたね」と聞かれたが、チーム内のことを話すわけにもいかないし、「いろいろあるんだよ」と言うしかなかった。
そのままチームも浮上することなく最下位に。シーズンも残り数試合というころには球団社長に呼ばれ、来季の契約の話を行った。「球団は伊原さんを評価しています。来季は二軍で指導していただけないでしょうか」と打診を受けたが「結構です。やはり野村監督の下では難しいです」と返答した。その後、監督室で野村監督に退団の挨拶。そのときの会話もよく覚えている。
「俺とお前は結局合わなかったな」
「何が合わなかったんですか」
「いろいろなことだ」
「どうもありがとうございました」
野村監督も私と同じことを感じていたのだろう。
阪神は01年も最下位となり、野村監督は退任したが、これは致し方ない面もある。とにかく、圧倒的に戦力が足りないのだ。やはり、チームが強くなるには監督の力だけではどうしようもない。きちんと戦力を整えるフロントの力も必要だ。野村監督は「お金を使わないとダメだ」と久万俊二郎オーナーに進言していたという。それは野村監督の次に監督となった
星野仙一時代に実行。03年の優勝につながっていくのである。
写真=BBM