月刊誌『ベースボールマガジン』で連載している伊原春樹氏の球界回顧録。2022年4月号では星野仙一さんに関してつづってもらった。 “星野一家”とも言うべき一体感

中日第1次政権時の星野監督
星野仙一さんは現役時代、セ・リーグの中日に所属。私は主にパ・リーグの西鉄(現
西武)でプレーしていたから対戦経験はない。テレビ画面などを通しての印象になるが、やはり思い出すのは気迫あふれるピッチングだ。「打てるもんなら、打ってみろ」。特に
巨人戦だ。球界の盟主相手になると、闘志は倍増する雰囲気だった。ケンカ腰でマウンドに立つ投手なんて、今では皆無だろう。
ボール自体は驚くようなスピードがあるわけではない。中日の後輩である
鈴木孝政や
小松辰雄に比べると球速は劣る。それでも“並みのスピード”であるストレートを打者の懐に厳しく投げ込む。あふれんばかりの気迫とともに投げ込まれる1球に、打者は気圧されていたような印象だ。
1974年に中日は巨人のV10を阻止したが、6年目の星野さんは15勝9敗10セーブで最多セーブを獲得。さらには沢村賞に輝いた。翌75年には勝率.773で最高勝率を獲得。77年には自己最多の18勝をマークした。通算500試合に投げ、146勝121敗34セーブの数字を残し82年、14年間の現役生活にピリオドを打った。
その後、4年間の野球解説者生活を経て87年、39歳の若さで中日の監督に就任。青年監督となった星野さんのイメージは現役時代と同様だった。燃える男。血気盛んにチームを率いていった。情熱的な星野さんの監督の様子を90年、中日から西武へ移籍してきた
鈴木康友からよく耳にした。康友は控え野手だったが、ベンチに座っている選手は常に前のめりで試合を見ていないといけないのだという。背もたれに寄っかかっていると、星野さんからドーンッとくる。いつ、座席を蹴り飛ばされるか分からないから、とにかく体を前に倒してグラウンドに集中していたそうだ。
控え選手もケンカ腰。さらに例えば投手に対しては相手にぶつけてもいい。打者に対しては体にボールが当たってでも出塁するような気迫を求める。ただ、選手にやらせっぱなしではない。何か問題が起こったら、星野さん自ら真っ先にグラウンドへ飛んでいく。“星野一家”とも言うべき一体感には、はたから見ていても感心したものだ。
「何をニヤッとしとるんじゃ」
そういえば90年、ナゴヤ球場でのオープン戦ではこんなこともあった。8回、西武・
鹿取義隆が中日の新外国人のディステファーノに対して右肩へ死球。鹿取は帽子を取って謝ったが、ディステファーノは怒りが沸騰。マウンドの鹿取目掛けてバットを投げつけた。捕手の
大宮龍男はすぐに止めに入ったが、ディステファーノはパンチを浴びせる。それを見た西武ナインは血相を変えて大宮を“救出”するためにベンチを飛び出した。中日ナインも駆け付け、両軍が入り混じったしっちゃかめっちゃかな状態になった。もちろん、その乱闘に私も参加していたが、誰かの指が口に入ってきた。グググーッと引っ張られるような形になったので、思わずガブッと指を強く噛んだ。切れてしまうんじゃないかと思ったほどだった。
乱闘は一旦収まったが、西武・
広野功コーチとディステファーノが言い争いを始めて再び火が付き、最後はディステファーノに退場が言い渡され、事態が落ち着いた。やれやれと思って、ベンチに戻り、やおら相手ベンチを見ると、星野さんの手に包帯が巻かれているではないか。まさか、私が指を噛んだのは星野さんだったのか……。そんな話を広野功コーチとしていた。広野コーチはどちらかと言うと、普段からニヤッとした顔をしている。私と広野コーチがチラッと星野さんを見ながら話しているのが目に入ったのか、星野さんが「広野、何をニヤッとしとるんじゃ」と怒号を浴びせてきた。星野さんのより広野コーチは年上なのに呼び捨て。「星野さんはすごいな」とあらためて思ったものだ。
写真=BBM