「代打、ワシ」が原点?

代打の神様と称された八木
交流戦が終わり、通常の(?)ペナントレースが始まる。セ・リーグのチームでは、交流戦では指名打者としてレギュラーだった選手が“代打の切り札”に戻る、ということもあるだろう。大きな声では言えないが、それを待っていたファンも少なからずいるのではないか。ここぞの場面で代打の切り札が登場するのは、そんな強打者がレギュラーで出ていては味わえない場面。打順が回ってきた打者を下げてまで登場した切り札が逆転打を放てば、熱狂はピークに達する。
代打の切り札といえる存在は古くから各チームにいるものだが、もっともエピソードが豊富なのは
阪神だろう。初代“ミスター・タイガース”の
藤村富美男が兼任監督を務めていた際の「代打、ワシ」という名言は長く語り継がれ、ほとんど代打ひと筋で過ごしながらも、
川藤幸三は絶大な人気を集めた。もしかすると、この川藤の存在が、阪神ファンに代打を期待する土壌を作ったのかもしれない。一般的に絶対的クローザーは守護神と評され、阪神では2リーグ制となって初の日本一に輝いた1985年のバースが「神様、仏様、バース様」といわれたが、代打の切り札も阪神では“神様”と呼ばれる。
とはいえ、“代打の神様”の称号は、代打の切り札となっただけでは得られないものらしい。長い昔からいわれているような気もするが、“神様”の降臨は1990年代の後半、
八木裕が代打として活躍するようになってから。八木は低迷する阪神が2位に浮上した92年に21本塁打を放ったスラッガー。代打がメーンとなったのはプロ11年目となる97年のことだった。
2004年オフに八木は現役を引退。続いて降臨したのが
桧山進次郎だった。桧山は八木が“代打の神様”として新境地を切り開いた97年に四番打者として23本塁打。代打がメーンになったのは06年からで、それまでの阪神は八木も含めて代打の切り札には右打者が多い傾向があったが、桧山は左打者だった。桧山は13年オフに引退。続いたのは
関本賢太郎だ。1997年に入団した関本のトレードマークは送りバントという職人肌。三者三様、まったくタイプの異なる“神様”の系譜だ。
文=犬企画マンホール 写真=BBM