シーズン途中に始まった“旋風”

驚異の打撃で旋風を巻き起こしたホーナー
シーズン中に新たな戦力が加入することは少なくない。こうした顔ぶれが早々に活躍することでチームの流れが変わったことは、過去に何度もある。そんな“旋風”が立て続いたのは1980年代の後半だ。
1987年の4月末に来日、
ヤクルトへ入団したのが
ボブ・ホーナーだった。5日の
阪神戦(神宮)でデビューすると、いきなり初本塁打。翌6日の同カードでも3打数連続本塁打を放つ。このとき阪神の一塁を守っていたのが
ランディ・バース。前年まで2年連続で三冠王となっていた“最強の助っ人”をして「なんであんな選手を連れてきたんだ」と言わしめた。
まだ当時は助っ人といえばメジャーの実績を誇りながらも全盛期を過ぎた選手が多かった時代だ。ただホーナーは、まさに現役バリバリ。29歳と年齢も若く、そんな選手が来日するのは異例のことで、86年オフにメジャーで年俸が高騰したFA選手の獲得を各球団が見送る“取り決め”をしたため、獲得の意思を示す球団がなかったホーナーが1年だけのつもりで来日することになったのだった。
ホーナーは最初の試合を終えた時点で「パワー全開まで1カ月、待ってほしい」と言っていたものの、最初の4試合で6発という暴れっぷり。守備も走塁も全力プレー、それまでの助っ人と違って本塁打の後も淡々と塁を回り、圧倒的なパワーに加え、メジャーの貫禄を見せつけた。そんなホーナー見たさにヤクルトの観客動員数は急増、“ホーナー現象”、“ホーナー旋風”などといわれる熱狂を巻き起こした。
最終的にはヤクルト戦の観客は前年比+24パーセントとなり、ホーナーは打っても93試合、355打席で31本塁打。規定打席に届かない時点で大台の30本塁打を超えたのは、プロ野球で初めてのことだった。だが、いつしかホーナーから笑顔が消え、いつもイライラ。試合の終盤になると「若手にチャンスをやってくれ」と引っ込みたがり、攻守走の全力プレーで魅せた“旋風”のときのホーナーとは別人のようになっていた。
オフに退団。
関根潤三監督は「外国人の多い六本木ではなく新宿に家を用意したのが失敗。夫人が孤独に耐えかね、ホーナーも神経質になった」と分析している。
文=犬企画マンホール 写真=BBM