「スキさえあればって思っていた」

高い出塁率を買われ、トップバッターに抜擢された高木
1985年、低迷期にあった大洋(現在の
DeNA)に登場した“スーパーカー・トリオ”。
高木豊、
加藤博一、
屋鋪要と韋駄天が一番から三番までに並び、果敢に次の塁を狙ってセ・リーグを盛り上げた。
発案したのはアイディアマンとして知られる
近藤貞雄監督で、“スポーツカー・トリオ”として売り出されたのだが、語感もあってか“スーパーカー・トリオ”として定着。「50アウトになってもいいから100走れ」という檄の下、“スーパーカー”たちは走りまくった。
当時は、現在とは比較にならないほど盗塁の数がケタ違いだった時代。このときの大洋について、高い出塁率を買われてリードオフマンに抜擢された高木は「チーム内に、いろんなスキを突こうという発想がありましたよね。あの時代って、みんなスキさえあればって思っていた」と振り返る。「足で勝つ、という意識が強かった。ただ打つだけではダメで、むしろ実績がなくても足が速い選手がドンドン上がってきた」と高木。
とはいえ、ただ足が速いだけでは盗塁につながらないのも事実だ。「どんな球を(投手に)投げられてもセーフになるスタート」(高木)を心がけていたという高木の盗塁について、二番で高木に続いていた加藤が「豊はビデオも見る(投手のクセを研究する)し、勘でも行くし、ゲームの流れや投手の球種、カウントを読んで走れるランナー」と分析すると、これに高木は「野球って、ある程度セオリーがあって、それがちゃんと頭に入っていれば、そんな大間違いはしないですよ」と答えている。
一方で、「俺って実際(塁上で)チョロチョロしていたでしょう。大事な場面で逆の立場(打者)だったらイヤだったろうと思うよ。ジッとしとけ、って」と笑う。これに屋鋪が「走るチームなりのデメリットもあった」と言えば、高木は「けど、それ以上のメリットはあったんだからさ」と胸を張る。「四番バッターを8人、並べるよりも、動き回る選手を8人、並べるほうが、相手にしたらイヤでしょう」と高木。“スーパーカー・トリオ”の走塁、盗塁について、次回は加藤の視点を中心に振り返ってみたい。
文=犬企画マンホール 写真=BBM