2つの思いで揺れた日々

41歳の今季、ここまで一軍は61試合出場に終わっている糸井は引退を決めた
「続けたい気持ちも半分。辞めなければいけない気持ちも半分」
2022年シーズンも残り1カ月を切り、
阪神・
糸井嘉男はこの2つの思いで日々、心は行ったり来たりしていた。
今季が始まる際には「レギュラーを今一度つかみ、現役を続ける」。この思いだけでバットを振り続けてきた。彫刻のような肉体はさらに鍛え上げられ、長年苦しんできたヒザの痛みも癒えていた。体は元気、戦える肉体になっていた。そして、出場試合数が減る昨年と今年にあって、月曜日の試合がない日にも甲子園の練習場に向かい打撃練習とトレーニングを徹底的に行い、感覚を研ぎ澄ませてきた。使ってもらえれば結果を残せる……。自信と自分への期待があったシーズンだった。
ただ、今年の後半戦以降、本人は「ハーフアンドハーフ」という言葉を使って自分の心境を表現していた。
「二軍で若い子たちの姿を見ていて、思うところがありました。自分に問いかけ、考える時間が増えましたね。トリ(
鳥谷敬)が言っていたことを思い出す自分が居ました。トリの気持ちがよく分かるようになりましたね」

9月13日、西宮市内のホテルで引退会見を行った
これからのチームを担う若手選手の場を自分のわがままで消してしまうのではないか……。後進にチャンスを譲るべきだと思う自分がいたのは確か。これは糸井と同い年で昨年、引退を決意したタイガース時代のチームメート、鳥谷の言葉だった。
「一緒にプレーをしてきた後輩たち、自主トレを行ってきた他球団の選手たちは何としても続けてほしいと連絡をくれました。中には僕が自分の球団に掛け合ってみます、とまで言ってくれた選手もいました。チャンスがあれば、場所があれば、まだ続けられる、続けたいと思う自分の気持ちと、状況的にもう続けるべきではないという逆の気持ちとがずっと入り混じっています。今、若くて勢いのある若手が各球団に出てきています。自分の場所はあるのか、自分が本当に必要とされるべきなのか……。悩みます」
糸井の言葉を聞いていると「まだ続けるべき」というメッセージを伝えることはできなかった。この2年間は翌年の契約があるかどうかも分からず超人と呼ばれる彼でさえ不安と闘ってきた。昨年オフにもう1年、契約が延びたことを心底喜び、「僕にまだチャンスをくれるなんて本当にありがたく、恩返ししなければいけない」と、謙虚な姿が非常に印象的だった。
先輩・福留の存在
同じ左打者、同じ外野手として自らがあこがれてきた舞台である大リーグでも活躍した
中日・
福留孝介の存在も大きかった。学年は4つ上。“超人・糸井”が超人と呼んできたのが福留先輩だった。
「本当は体中、痛いとこだらけ。でも、あれだけ体が動く。僕と同じでヒザが悪いはず。手のマメを見てください、と。すごい手ですよ。あの年齢までプレーをするには、まだもっと振り込んで、練習に打ち込むしかないんです」と宜野座キャンプの室内練習場で打撃練習を行う阪神時代の福留を見ながら糸井は「あのようになりたい」と羨望の眼差しで最大の敬意を払っていた。
その福留も引退を決断。心はさらに揺れた。現役を続けるか、それとも引退を決断するか……。判断をするデッドラインが迫る中、最後は自分で決めた「引退」の二文字。
投手から打者に転向して

04年、近大から自由獲得枠で日本ハムに入団したときは投手だった
晩年はヒザの痛みとの闘いだった。35歳で盗塁王を獲得したあと、ヒザが悲鳴を上げていた。広い甲子園で外野手が走れないのは命取りだった。ただ、糸井は周囲にヒザの状態を隠し、プレーを続けた。ヒザの状態が良好であれば2000安打達成はあったかもしれない。投手から野手に転向して1754安打、300盗塁。大卒でありながらプロ3年目で打者となり、すぐさま結果を残してレギュラーに定着する大仕事をやってのけた。
よく練習した。本当によく練習していた。バットを常に握っていた。
これが、私たちが見る糸井の印象。野手に転向して成功した理由は間違いなく、それだけ練習に時間を費やし、ケガをするギリギリまで肉体を追い込み、打者・野手の動きをインプットしたからだった。ただ、それを積極的に周囲に言うことは決してなかった。
あえて言わない美学。
これが糸井のスタイルだった。ケガをしているときも、活躍した理由も、あえて独特の表現方法で周囲の目を別の方向に向け、自分の素晴らしい部分を心の中にしまい伝えてこなかった。
“言わない男”糸井嘉男。見事なプロ19年間だった。
文=田中大貴 写真=BBM